賢い奴らが排除され、陰謀論は破綻する

雑談

たとえば最近読んだ本でも端的に暗愚などと称されるような某国の「トップ」について、二度目の就任当時の「彼」を、私は「偽王」ではないかと勘繰っていた──思慮と分別と良識がはたらかないからこそなしえる悪政を通じて、国政のありようを根底から変えたのち、「彼」は眼を潰され去勢されて砂漠に放たれ、それで国民の留飲は下がり、続くより少なく悪い政治が善政として歓迎される──安易な陰謀論である。裏で糸を引く「賢人」たちの描くシナリオを想定すれば人はたやすく自分が民主主義社会の担い手・主権者の一人であること、その主体性を忘れてしまう。

そして見落とされるのは「われわれ」の主体性だけではない。かの暗愚たちもまた──「賢人」たちのシナリオに従うことなく──主体的にはたらくのは当然ではないか。もしも彼ら彼女らが本当に全くの無能で、今ある以外の何物でもあることができないとすれば、今のありようを絶対に手放さないし、そのためなら死に物狂いで何でもやるし、それができる「権力」を現に持っている。仮に「賢人」が存在しようものなら真っ先にこれをとり除き、利害が一致する者で置き換えるだろう。

スピーチライターの書いた原稿をそのまま読み上げるだけの機械仕掛け然とした「彼」の姿はいかにも「お飾り」的で主体性のかけらもうかがえない。それでも、自分に対する批判者や、自分の地位を脅かす者すべてに向ける、幼稚であるがゆえに見境のない「彼」の攻撃性は、安易な陰謀論が捕捉できない主体性に満ちている。「彼」を止めるのはより高度な陰謀論が想定するより高度な「賢人」たちのシナリオではなく、有権者とか呼ばれる者らの主体性だ。そして主体性どうしのぶつかり合いのことを「たたかい」と呼ぶなら、民主主義社会で有権者であることを自覚することは「たたかい」を覚悟することであろうな。

Michal JarmolukによるPixabayからの画像
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