2024年1月の日記

20240113

程度の違いに伴って「自然に」生じる事柄を量の問題のうちに解消し全員の質を確保する不自然が社会である──としても、質を維持する意義、あるいは質の内訳自体のコンセンサスが薄れてしまえば、程度がより大きく強い者から、自身や自身が持ち分を有する社会のリソースが目減りすることに抵抗する。その抵抗が、程度の違いにかかわらず、より原始的な意味で質的に同じ者が異なる扱いを受ける不自然に向けられるうちはまだ、質の再設定による社会の修復が期待できる──もっとも、量の違いを質的それに短絡するほかに考えるすべを持たない者らに何を望めようか。実効性のある再分配とこれに説得力を持たせる維持されるべき質の設定みたいな地味で面倒で頭も身体も動かす仕事に比べて、量的な違いを片っ端から質的な違いに転化して互いに違う者らを等しく個性として尊重する向きが好まれるとすれば理由は単に安上がりだからであり、それゆえ、程度の小さく弱い者がこれを「反差別」として採用するのも「自然」なのか。

20240112

無力や無能力に対してむき出しにされる憎悪や嫌悪感を、差別に由来するヘイトとして捉える場合、われわれが差別と捉えるあれとこれの違いは、有能無能の違い同様に程度の違いに還元可能であり、その一方で有能無能の関係もまた、特定の文脈で質的な違いとして現れうるのではないか──その時ようやく問題としての差別が認識されるとして、それが「多様性を尊重」する方向で解消されることが、果たして救いをもたらすものか。実現されるのはせいぜいロングテールを言祝ぐ市場ではないか。

20240109

ゲーム内に描かれる3Dキャラクターの動作、とりわけセル画調のそれに「アニメ」を見てしまうのは不幸な錯覚ではないか──これを「アニメ」の再現を目指し未だそれに至らない技法でなく、「アニメ」と異なる素材を介した表現として、人形劇のように鑑賞し、時に操演できれば、一見すると無表情でパターンの限られた動作を組み合わせた芝居にさえ、まさにそれゆえの面白みを感じられる。

20240108

意義ある仕事に必要なものは饒舌な称賛でなく相応の待遇、それを持続できる体制づくりだからこそ、難しく面倒なうえに煩わしい政治議論を伴いかねない後者よりも、容易く安上がりで、しかも気持ち良くなれる前者ばかりが世に溢れ、あまつさえ後者の呼び水であるかの如く吹聴される──称賛は称賛だけを招く、という意味では呼び水的である──などと、単純な構図を描いて済ませていた。しかし実態はもっと単純かもしれない。意義ある仕事とは称賛される仕事だから、誰もが称賛すべきである──今日的な教育と報道は、意義ある仕事を提示し褒め称え、誰もがそれを実践できるよう、適切な修辞を提供する。いっぽう、意義ある仕事がカネになるかどうかは別の話であり──適宜出しわける自己犠牲の物語と自己責任の「理論」を提供することもまた、今日的な教育と報道の仕事であろうか。もしそうだとすれば、例えば公共領域から逃避する疚しさを抱えたパーソナリティなどもはや少数派で、これを批判する言説に、仕上がった者らが動じることはないだろう。

20240106

直接の「ちから」になれない者は、それができる者を支える「ちから」になればよく、できるのにやらない者に批判と要求を投げかけ仕事をさせることもまた、できない者ができる仕事である──的な出来過ぎた役割分担思考は生理的に好かないものの、一理あると感じるなら渋々であろうが従うべきだろう。

20240105

災害時に政府・行政の対応が厳しく監視され時に批判されることは民主主義の対価でなくそれ自体だとすれば、「自分にできること」を探しあぐねる者らはせめて「それ」をやることが、曲がりなりにも民主主義の下で安穏と生きる者が支払う「対価」ではないか──それにしても例えば呼吸は生存の「対価」なのか、むしろ呼吸による酸化こそが生存に伴う対価、あるいはリスクだとすれば、民主主義にとってのそれは何であろうか。政治批判など暇人がやればよく、多くの災害や事故において日本人の大半は暇人である──とまで言えば語弊があるだろうが。

20240104

学びに本質をおいた謙虚が傲慢に転じる契機はそのアウトプットに限らず、少数派にばかり説明させる多数派問題しかり、教えを請い説明を求めるインプットに伴う行動が端的にハラスメントを構成することはままある。それが無自覚的に実践されるのは、「強い」者にとって「弱い」者に教えを請うことが自己卑下に映るからだろう──これ見よがし的に自身の「謙虚」が誇示される。

20240103

謙虚を説いて他人を黙らせる向きには少なからず遺憾であり──黙らない謙虚があるとすれば、その本質には遜りでなく学びがみとめられ、既存の知を尊重し他人の主張に敬意を払うだけでなく、学びに伴う「アウトプット」においてむしろこれに抗い、挑戦的で、ややもすると傲慢に転じかねない危うさをはらむ。対して遜りに徹底し自己卑下に至る謙虚は学び自体を傲慢としてこれを排するだろう。

20240102

近未来に対する漠然とした不安が「われわれはどこへ行くのか」と表明されるたび、据わりの悪さを感じた──自分の脚で歩かず、行く当ても定まらず、どこにも行かない多くの「われわれ」には「どうなるのか」こそ相応しい、などと。それにしても、行き先を知らないバスに飛び乗ったり、先頭が分からない行列に並んだりする類の「われわれ」が抱く不安は「どこへ行くのか」として現れよう。

20240101

正月感のない元旦──しかし昨日までの年末感は確かにあった。我々に何らかの感慨を抱かせる年の区切りは年末に属する。いっぽう、正月には何もない。何もないことに甘んじ、余暇としてこれを享受するなら、得られる感慨も当然ない。年が区切られるなりゆきで与えられる感慨に比べれば、自ら年を迎え、始める意義に見出される新年のそれが要求する主体性の水準は、たかが人、ましてや普通の日本人にとって、なんと高いことだろう。そんな彼ら彼女らが参加を通じて始める主体性を形からでも獲得し、あるいは集団的な主体性に与るところの行事として正月を捉えるなら、強制参加を解かれ年末の延長上にこれを過ごす者は、始めた覚えのない年の終わりが積み重なるだけの時間を生きることになる。久しく人口に膾炙する終わりの始まりが、始める主体性の欠如において、正月感のない元旦に似ているとすれば、人が年を始めることは、何を意味するか──われわれはいかにして主体的に正月をやるのか。少なくとも「正月番組」は何も答えてくれない。

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