業者との雑談にて唐突に「ネトフリ版よりテンセント版を勧めたい」などと話を振られ、自分ちょうどいま原作読んでる途中だから「ネタバレ」はナシの方向で、などと適当にはぐらかし、その日の夕方、「三体」の1巻を注文する──ぜんぶで1万円前後の単行本には抵抗があったところ、幸い今年になって文庫化された。その後、間を置かずに第二部を買ってすぐ読み、2週間後に発売された第三部も同じ勢いで読み終える──その間は文字通り寝食忘れる、得難い経験であった。
やたら「スゴイ、スゴイ」と評される理由の一つは、すぐれてこなれた翻訳だろう、なにしろスゴイ読みやすい、ラノベみたいにスイスイ読める、スピード上げても頭に入る。面白いから読み進められる側面は否定できないにせよ、話を勢いよく読み進める読書体験それ自体の面白さが確かにある。ここで本の厚みは決して冗長さや虚仮威しを意味しない──むしろ厚みとその変化を指が継続的に感じとるためには最低限必要なページ数・紙束ではないか。本の厚みやかさばりを電書化で解消する向きには再考を求めたい──立体の平面化は「情報」の損失を伴い、この変換が不可逆的ならそこでは、とりかえしのつかないことが起きている。
話の背景と結末を知った今となっては、例えばVRゲームのだるいくだりを再度見返す気分になれず、あと私はグロ耐性弱いので、最初に勧められた映像版には手を出せずにいる。かの世界で、胸のすく一発逆転劇のご都合主義は何度も許容され、余剰次元まで利用できてもなお、時間を巻き戻すことは決して許されず、その発想自体が締め出されている──進むか進めるかしかできない時間、時間観に貫かれた物語を、ドラマ版で遡ることには違和感がある、などと、自身の怠惰を弁明したくもなる。もっとも、再現性が偶然の産物かもしれないと学んだ後では、同じ話の繰り返しを想定するほうがむしろおかしい、と考えれば、安心してhuluに課金できよう。
- 長い話の印象は良くも悪くもラストシーンが塗り替えがちで、今後「三体」を語るたび、最後の──きれいに見える一番最後の最後の手前に描かれた──「アニメ」な絵面が真っ先に思い浮かべ苦笑することになる。それはいずれ三人が辿る平面化を予感させるのか、読者に向けた小粋なサービスか、あるいは──第一部のクライマックスに、作者のギャグ寄りな作風・嗜好を勘ぐったものの、第二部以降、とりわけ皆殺し展開あたりで、翻訳を介しても感じ取れる濃密な脳汁の迸りにあてられ、面白がっているのは書いてる本人だと確信でき、第三部からようやく「こういうのがお好きな種類の人なのだろうこの作者は」と割り切って読めた。この作者は多分、シュールもギャグも一切抜きに「数学兵器」と書ける人、その字面に自分で胸を熱くできる人ではないか──かつて「周囲の物理法則を書き換えながら進む」なる台詞になんの邪念もなくときめいた彼らのお仲間である。