ある種の日本ヤバイ論者が軽々しく日本脱出を嘯くとき、彼ら彼女らの言動の誠実性はとたんに疑わしくなる。今日実感されるヤバみのある程度は世界的な傾向で、いっぽう、これに対抗する国民そして有権者の抑え込まれ方、切り崩され方に各国の独自性があらわれる。日本で深刻なヤバみはこの独自性の方ではないか──例えばそれが、政治色を帯びがちな国内でのとりくみよりも、生活防衛の文脈で完結できる国外逃亡が、対抗する側の言動として選ばれ、好意的に迎えられる、といった仕方であらわれる。ここでの問題は、日本を脱出するだけの行動力ある貴重な有権者を国外に失うことでなく、ただでさえ行動力の乏しい国内に残る有権者の、より良い、よりマシな生を思い描く想像力から、政治性が奪われることだ。
- 実際に日本脱出を望みながら、これを成し遂げる者はそう多くない。その原因を「行動力」不足に還元し、ここから政治的不活発を論じたりすると、日本脱出を成し遂げるだけの行動力を持ち合わせた人にこそ国内にとどまってもらいたい、的な願望が生まれる。
- 日本のヤバみを切実に感じる者ほどこの地に縛られる一方、そうでない者はいつでもこの地を離れられるし、案外とっくにそうしている──この地で有権者としてのつとめを放棄した後者は、移住先の有権者が築き上げた成果にタダ乗りし、その国に好意的な外国人として、いまなおたたかわれる取り組みの最後尾で脚を引っ張るヤバイ日本人を演じることになるだろう。
- たたかうことと逃げることは行動力のもとに一元化されない。たたかいから逃げる者は逃げるためにたたかうことさえしない。
- きょうびの世界でたたかわずして安穏と過ごせる地が「われわれ」に残されていようか。
Jürgen MaagによるPixabayからの画像