20211231
今までになく「生きづらさ」なるものを意識した一年だった──こうして、何でもいいから書き散らさずにはいられなくなるほどに、この国で正気を保って生きることはしんどい。
20211230
「持つ者」は「持たざる者」のために新品を買ってあてがうべきであり、「持つ者」が自分のために新品を買って、その結果ゴミとなるはずの中古を「持たざる者」にあてがう行為は普通に醜悪だが、これにエコと慈善の体裁をまとわせる、いかにも安っぽい言説には、場当たり的な誤魔化しではなく、その醜さをエコ・慈善一般に転嫁してまで、「持つ者」に偏った消費一般の政治的・道義的な純粋性──消費無罪──を守ろうとする陰湿な執念が感じられる。
20211229
正方形のアイコン状に顔をトリミングされた「キャラ」の一覧から特定の絵を選別する作業──ある種のゲームのユーザーが普段当たり前にやってのけるそれ──がもたらす脳への負担はたぶんバカにならず、疲れた時にやるものではないし、この種の操作は歳をとるにつれ難しくなる。同様に、キャラの直接的な操作の衰えよりも先に、育成管理とアイテムの整理に頭が追い付かなくなる「ゲーマー」だっているだろう。今日主流のゲームはUIまわり含めゲーム人口の若さに依存して設計されている──不十分にしか設計されていない。
20211228
「技術」万能論者であろうとも、あらゆる問題の「技術」な解決までは約束しないにせよ、「技術」的な解決をあらゆる問題に求めようとはする──「技術」の進歩に将来的な解決を託す楽観主義をここに見いだし嘲笑する前に、あらゆる問題に対して無条件で無制約的に適用できてしまう彼ら彼女らの「技術」観が問われたい。「技術それ自体」の価値中立性を普遍的な適用の根拠に据えた「技術」観は、これに携わる者達にも価値中立を汚すことのない純潔性を求め、もたらされる解決に対する「偏った」価値・評価によって汚されることも許さない。
20211227
リアルな報道をはじめ、これによってリアリティを得たフィクションを通じて、独裁者が民衆に打ち倒される展開に馴染んだ世代が、悪政も行くところまで行けば「自然」に倒れるものと思い込むのは無理もないとして、それにしても、倒す側の者たちが一通り潰されるからこそ行くところまで行って今なお倒されずにあることの「自然」に、彼ら彼女らの考えが及ぶべきだった、とは思う──彼ら彼女らは、良心的には前者の自然の到来を錯覚しながら、現実には後者の自然をみずから無自覚に構成するに至る。
20211226
目標や憧れというよりも人生の「伴走者」みたいな存在を、少なくない人々が設定している。それとして一方的に選ばれる者は、必ずしもなんらかの「スター性」に恵まれず、むしろ比較的に地味で凡庸なありようが好まれ、それでいて「努力」によって開花する「能力」と、その受容を助ける物語に色をつける程度のささやかな「才能」まで求められる。彼ら彼女らは、選び求める者たちが劣等感に苛まれない程度に、遠く異なる、ほぼ無関係の存在だからこそいっそう、進む進路もスピードも全く違えども、一緒に走っているかのように錯覚される──彼ら彼女らが走り続けるなら自分だって走り続けられる、との思い込みで人生が多少なり楽になれば、それは尊い錯覚にちがいないとしても、自身とは全く無関係な存在の「喪失」によって人生が負うなんらかの深手は覚悟した方が良い。この錯覚が、入れ込んでいない・熱狂的でない・ゆるい「ファン意識」の正体であったと、後になって気付かれるケースは、決して少なくないと思う。
20211224
人が無防備に「経済」を語るのは、それが「政治」と異なり価値中立的なテーマだからだとすれば、「経済」の価値中立性は、自己保存に行き着く「自然な欲望」の普遍性にその根拠が求められ、これを満たす「純粋な」技術として「経済」が位置づけられるなら、これによって保存される自己の生は技術の言葉で再構成されたかたちをとる──かかるありようを内面化した生は「政治」性を帯びた「人間」としてより良い生を求める言説を持ちえず、同じ要求を掲げる「政治」的言説もまた彼ら彼女らを捕捉できない。
20211223
この世界の数多ある片隅で日夜うまれる「企画」の大部分はしょうもなく、いくらかはどうしようもないとしても、当の発案者にそれが分かっていないからこそ「やってみないと分からない」の一点突破で、たえず見切り発車を迫られる。発案者と異なり実際にこれを迫られる者の仕事には、これを戯言として打ちやることで具体的な損害を予防するばかりでなく、宿便的に滞った妄想の澱みに然るべき──できるだけ健康的な──色と形を与え、これを世に排泄することで、やってみせ、分からせることも含まれるはずだ。
20211222
敵の敵は味方の論法で、業者側に一方的に肩入れして商売の庇護者を気取る、ある種の消費者はたいてい、勝ちに急ぐあまり肝心の敵対関係を見誤っているから早晩「裏切られる」。商売人にとって、少なくとも敵でない者は潜在的に客であり、客の敵は敵か、タチの悪い面倒な「お客様」である。
20211221
筋の通らない思い付きの「企画」はときに、その間違いなり問題点が指摘されるたび、都度思い付かれる言い訳とつじつま合わせによって歪にその姿を変え、やがて人ではとうてい運営できないかたちをとる一方で、そこまでしてでもこれを世に出すべしとする、一本のゆるぎない筋をようやく現出させ、関わる者達にこれを共有させる──明らかに思い付きな「企画」に対して、発案者を逆上させるような「批判」は行わず、最もシンプルかつ明確に間違った姿で早急にこれを世に出す方が人的被害を抑制できる場合もあるだろう。
20211220
社会よりも自分を変えることをうたう者に、自分と向き合いこれと戦った痕跡が見当たらないことはままあり、そこでなされる「自己変革」が自身による飼い馴らしであるなら、「彼ら」が飼い主の立場から考え喋るようになるのも自然のなりゆきである。
20211218
一度断たれた人間関係の修復を申し出るのが謝罪だとすれば確かに謝れば終わりでなく始まりであると分かるはずだが、謝って済む問題ではない、と聞けば、謝罪とは異なる何か──だいたいカネ──が要求されていると思い込み、この思い込みが習慣化されると今度は、何かを要しないという意味で、謝るのはタダなどという「処世術」が身についてしまう──相手との関係を修復するつもりもなく下げた頭を殴られた時には、タダほど怖いものはない、などと自嘲して見せるのだろうか。
20211217
かつて事前登録したらしいゲームのアイコンをホーム画面に見つけて、とりあえず進めるところまでやる。何に惹かれて登録したのか全く思い出せず、それにしても自分の無意識が各キャラの設定を開いてはキャスト欄を確認するあたり、気になる役者がどこかにいるのだろう、そして肝心の名前が思い出せない。
この世界のヒロインは毒が使える──みたいな設定は結構気に入っている。
20211216
皮肉が通用しない者の多くは、その一方で、言葉の含む毒気に敏感だから、バカにはどうせ分からない、などとと高をくくって、本人の目の前で悪意むき出しの「レトリカルな」言説をだらしなく垂れ流す行為は、不用心にも程があり、人一般を舐め過ぎている。
20211215
他人の作品をだしにして何かうまいことを言う芸が批評だとすれば、その種の批評家を芸能人と呼ぶことがさほど的外れとは思えない。作品に限らない「ニュース」一般に対してタレントにコメントが求められるとき、彼ら彼女らは生業としてこれに応じ、かの芸を披露してみせるのだろう。
20211214
昨今の巷にあふれる公権力に飼われた民間人を公務員と呼ばない感覚が残っている間に、公務員とは・公とは何であるのか、あらためて明らかにされたい。ある種の連中──サヨクでは決してない者達──が「ネタ」としてNHKのことを「国営放送」などと呼んでは面白がっていた間に、公共放送の存在とその意義が世間から忘れ去られ、NHKはいまや本当の国営放送に成り下がりつつある。
20211213
放置すれば遠からず傷み朽ち果てるモノが「文化財」として選ばれたなら、その価値はこれを保存するために費やされる技術と労力が積み重なり刻み込まれることによって時代を重ねるごとに高められる。こうして後から付け加えられた価値の合計がいずれ本来のそれを上回るならその時は、「そこまでして」保存されるに値する本来的価値があらためて見出され再評価される。
20211212
何事を始めるにしても遅過ぎることがないのは、有限の存在に過ぎない我々が何事にも間に合うことはないからだろう──年々募る焦燥感を「ポジティブに」飼い馴らすのも諦念であり、何もしないままでいることを正当化するだけの方便ではないはずだ。
20211211
従業員が病気になっても絶対休ませない、ある種の企業の脅し文句は、戻った時「お前の席はない」ではなく「お前の席しかない」であった。
20211210
サブスクをわざわざ契約してまで動画を見る人の中には、常にテレビをつけておきたい、それでいて、地上波の番組欄を埋め立てる、ある種のジャンル、ある種のタレント、ある種のCMを絶対見たくない、従来のテレビ視聴者が少なからずいるだろうから、旧メディア相手に可処分時間の奪い合いを本気で取り組むつもりであれば、アマプラはせめてジャンルと出演者のフィルター機能を精度範囲とも充実させるべきではないか──検索開始前・ホーム画面の段階でのフィルタリングを望むユーザーも少なくないはずだ。そのうえで、ユーザーに選ばせることなくデフォルトで流す動画のセットリストを「AI」に拵えさせてからようやく、先の奪い合いが始まる──それまでは単なる棲み分けでしかない。
20211209
人がテレビを見るのは惰性だとしても、見ない・見たくない人の理由は明確だから、例えば、コンテンツの供給側が「視聴者が見たいものを」などとうたう時ほど「視聴者が見たくないもの」を避ける消去法が採用されそうなものだ──としても、おそらくそれは視聴者の惰性を妨げない方向でなされる。テレビの視聴者とは本来、理由もなく惰性でそれを見る者が想定され、見ない・見たくない理由を明確に持つ者は潜在的な視聴者にさえ含まれないのだから、後者が見たくないものは番組作りに影響しない。そして、前者を可能な限りで減らすことなく「テレビを見るような層」として純化し、広告主に提供することが、映像系旧メディアの使命である──そこで唱えられるネットメディアの脅威云々は少なからず事業再編・統合の方便で、テレビを見る人間は絶対にいなくならない確信が彼らには多分あって、そのうえで視聴者が「層」として固定した段階でおこるパイの分配を、彼らは見据えている。
20211208
親しい間柄ほど礼儀を欠きがちで、そうでない関係には礼儀を挟むのがデフォルトだから、人を他人のように扱うことは、どうでもよい存在として雑に扱うことを意味しない──と、理屈でしか分からない者もいる。今ある親密な人間関係を維持するうえで、人間関係に費やす感情的なリソースを「他人」にあてるのはもったいない、と感じられるのか。それにしても礼儀を払うつもりのない「他人」は身近に置かないのが定石で、「節約」のために身近な存在を「他人」と割り切るのは悪手ではないか──はたから見ればそれは、別のありようの親密さ、あるいは単に一方的な甘えとして映る。
20211207
歳をとったわれわれが「若者」に恐れを抱くのは、彼ら彼女らが何を考えているのか分からないからでなく、自分ら年配者・年寄りに対して考えていることが分かるからだ──とすれば、「若者」が「年寄り」に対して無関心で、にもかかわらず関心を迫られた時、かの「考え」に至ることもわれわれは知っているはずだし、思い出すべきでもある。あと、いたずらにおびえて見せることで関心を惹こうとする様は、若作りでなく幼児退行である。
20211206
十人並みの能力をひとかどの才能として際立たせるべくこれを「無駄遣い」して見せるセルフプロデュースに対しては、これを真に受けて、そこで生じた社会的損失を数え上げ、彼ら彼女らの能力を「正しく」評価してやるべきではないか、と思う。いっぽうで、ひとかどの才能の持ち主が戯れに披露する余技を、わざわざ「無駄遣い」と呼ぶ向きには、あらゆる能力の「有効活用」に対するただならぬ圧力と、単なる語彙の貧困を感じる。
20211205
職場のおっさんに対して女がする、ある種の「お接待」を「演技」と呼ぶなら、その上手い下手を論じることが無意味であるのと同様に、ワカコ酒の「演技」もまた──という話。それにしても、上手い下手のどちらに振っても面倒が目に見えている場面で「演者」のとりうるふるまいが、主人公によって上手く実演されているとは思う。
二か月近く清算しないままおいたアマゾンのカートが、シラフではレジに進みづらい合計金額を示しており、土曜の深夜、黄色いボタンを押すためだけに深酒する。案の定というべきか、アマプラ登録のチェックを外し忘れる。
20211204
いくつになってもガンダムの話はしてもよい、としても、なにかとガンダムで例える芸は、早めに「卒業」したいところ──その語り口はたいてい、本人が思うほどには面白くなく、そこで臭わせたつもりの「教養」は本人の想定外に安っぽいうえ、実際に本人がそうでなくとも「ガンダムの話しかできない大人」に見えて、ひどく痛々しい。
20211203
ダサい単語を新語で置き換えるよりも、既存の単語とつなげて長くして短縮して消す方がスマートだとすれば、DXの名がその実体以上に重宝されるのも分かるし、その「正式名称」をいちいち言わせる年寄り連中への苛立ちも分かる──もっとも「デジタル」に気恥ずかしさを感じる者もまた十分に長く生きた、年寄側である自覚は欲しいところであり、自覚の足りない者には「正式名称」を何度も言わせて笑ってやればよろしい。
20211202
いわゆる「ネットの時代」「デジタルの時代」な「これから」が始まってから十分に長く、始まった当初の浮足立った空気を帯びた「ネット」「デジタル」なる単語はなんとも古臭く響く今日、かといってこれに代わるスマートな単語が見当たらないあたりは、ある種の提言作文書きの悩みどころではないか。
20211201
なにかとアレなウマのアレも、たまにやる分には面白いものだが、正しく言えば、たまにやって勝つ分には面白いだけでもある。ある種のギャンブル──競馬よりもパチンコ系のそれ──で味わえる勝ちの高揚感、そしてそれ以上に、負けの「面白くなさ/おもんなさ」を、直接金を賭けることなくリアルに体験できるゲームである。毎日やるものではない。