2022年5月の日記

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20220529

弱肉強食を現状の強者と弱者の役割が固定された仕組みと捉えるならそれは競争社会とは全く別物だが、それにしても両者が同じに映るのはたぶんそれが弱者に生存競争を強いるからであり、しばしば弱者間で脚を引っ張り合わせるからである──そして強者たちは現状の力関係を固定するためにあらゆるてだてを尽くすだろうが、それは競争ではない。

20220528

利己的な者たちが幅をきかせられるのは利己主義を抑制する同調圧力の強い世の中であり、誰もが利己的に振る舞える条件下では利害関係者同士が互恵関係を保ち、下界の消耗戦に高みの見物を決め込むようになる──格差社会の戯画に少なからず感じる違和感は、上位の強者がそれぞれ独立した利己主義者として描かれる点だ。

20220524

情勢がラディカルな時代には情勢こそが最もラディカルだから、革命家は自身を情勢化して振る舞うことであらゆるアクターを差し置いて「主導権」を握ろうとするだろうし、独裁者もまた同じようにすることであらゆる変革の契機をなきものとするだろう。

20220521

既存のスペルに無音のGやらJやらXやらを隙あらば挿入したがるキャラクターを造形するも、使いどころに困るなど──あふれんばかりの独創性に無音であることを抑えきれず口をもごもごする様はキモかわいい出来栄えで、分かりにくさゆえ不気味でもある。

20220515

ある種の人々が用いた「プロ市民」なるワードは、彼ら彼女らにとってみれば、自身が貶めたい存在を投げ込める使い勝手のよさゆえに、見たいものが見える類の漠然とした像を結んだにとどまるかもしれないが、一方で同じワードを見聞きした当時の具体的なサヨクは、ある種の具体的な「市民」像を高解像度で思い描いたのではないか──表立ってそれを言わなかったのは自制心のはたらきもあろうが、何よりも面倒くさかったからだろう、その具体的なある種の「市民」のいくらかが昨今、ひらがなのアレに群がる様を見るにつけ、そう思う。

20220508

本の最初から最後まで読み通してから本棚に立てる一連の作業を読書と信じる者は遠からず、値段相応に厚い本よりも不相応に薄い──高くて薄い──本の方にこそ、強いコスパを認めるだろう。

20220507

女キャラ使いの男性プレイヤーが、自身のかかるプレイスタイルをわざわざホモフォビア的な言動で「合理化」「正当化」する様を、「女々しさ」が指摘されることに対する恐怖心の裏返しとしての過度な男性性アピールと捉えることは時に、若干単純過ぎるかもしれない。女体を自由にする「男性的」な願望に忠実なプレイスタイルが後ろめたく感じられるからこそ、自身の下卑た欲望とは別の、界隈に承認される「男性性」を求める──こうして男キャラを「ホモ」と囃し立てるばかりか、女体への執着と欲望をかえって露悪的に表明せざるをえなくなるまでして、彼らが守りたいのは、心の核に刻まれた、我が身との一体化を望むほどのキャラ愛か、それとも安っぽい「オトコ」の沽券か。

20220506

アマプラでアニメ「バナナフィッシュ」を一気見し、放送されたのが4年前であるにせよ、意義ある出来に違いないと感じる。英二の言動振る舞いの一つ一つが、映像化の妙もあって、視聴者──とりわけ今日好んで「アニメ」を見るようなそれ──にフラストレーションを抱かせるとすればそれは長らく、英二抜きのバナナフィッシュぽい爽快系作品に彼らが浸り過ぎたせいだろう。彼らのご意向に反して英二的なキャラを堂々と描き切れるのは、権威ある原作モノならではの強みである。それにしても秘めたる力と魅力を兼ね備えた黒髪主人公とは、いかにも異世界転生的ではないか。新聞を読むようにして、いまあるそれとはニュアンスの異なるニュースサイトを「読む」、googleの存在しない世界線のSF味も興味深い。

20220502

映画「インターステラー」を見て強く感じるのは、事前情報をもとに思い描いた作品イメージに対するスケール感のなさ、妙な狭さ・閉塞感で、それは当初、劇中の人類そして主人公に感情移入できるための演出かと考えられたものの、それにしても「○○の間」的な部屋を次々移動するかのような主人公たちをながめる視点は案外、五次元人のそれであろうか、などと勘繰りなどもする。面白いかどうかは別として想定外の映画を見せられた感があり、それが例えば「SFではない」的な感想としてあらわれるなら、その時こそ自身のSF観を省みる良い機会となろう。

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