自分が属する会社と戦うために、関連規則や法令を調べたり、「悪事」の証拠を集めたりすること自体は正しいとしても、苛立ちや腹立たしさに任せてそれを行う者は少なからず、法的根拠や証拠さえ集めてしまえば、あとはそれが自動的に悪をやっつけてくれるとでも思っているかのように、戦う主体になる意欲も覚悟も感じとれない。彼ら・彼女らにとって、それは戦い自体の代償行動なのだろう。
戦いの準備が既に戦いの一部であることに違いないにせよ、そこで出来上がるのは地図・航海図でしかなく、ボタン押せば爆発する武器などではないし、そもそも要求という方向性がなければ、それを役立てようもない。
戦いをけしかけ協力を呼び掛ける者は、まっ先に要求を確認されるべきだ──勝ち目などはその後で良い──それこそ人が協力できる根拠・拠り所だから。そして、信頼に値するかどうかは、要求とそれを支える権利・正当性で判断される。ろくに語れない者はいずれ、「こんな会社のために戦うこと自体馬鹿らしい」などと居直って逃げ出すだろう。
- 権利の実効的に行使するためには、これを正当化する体系だった主張こそ必要で、これなしにラクをしようとする者が、権力者の意向を先回りして「義務の履行」を提案する。
- まず要求をかかげ、その上で正当なはずの要求がかなわないことを不当と言うならともかく、予め前提にされた不当な存在を描き出すばかりでは、正当性の主張でなく演出でしかない。働いた分の金が欲しい、でないと生きていけない、そもそも契約に反する、それだけで十分正当な訴えであり、支払われないことが十分不当と主張できる。自分の要求の正当性を訴えるコストとリスクから逃れようとする者は不当な存在の邪悪な意図を想定する──陰謀論の入り口である。