アマプラで「閃光のハサウェイ」を見たことの感想

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主人公のふるまい──たとえば女性の扱いも含めたそれ──のひとつひとつにシャアを意識する自分に気づき、この作品が映像化された意義を理解する。「12年前の反乱」との接続は、キャラの生き死にとMSだけ追って小説をなぞった当時高2の自分にとって、年表的知識以上のものでなく、したがって「彼」の存在が意識にのぼることもなかったのだろう、なにしろ存在しないので。映像の続きが小説でなく同じ映像で提示されて初めて繋がりが見えた・見方が定まった、と言ってしまえば、自身の読解力不足を恥じるほかないが、それにしてもこの映画に「面白さ」以上の「分かりやすさ」を感じた理由は多分そのせいだ。

主人公が自身の主張と行動を社会的・歴史的に位置づける場面でない限り、直接的な面識がさほどない「彼」を意識することは多分ない。意識するのはもっぱら「彼」を知る我々の方だ。それにしても、神話としての「反乱」から直接さかのぼって、一年戦争から始まるかの拗らせはもちろん、仮面姿はおろかグラサンのアレすら知らずに「誤って」理想化された青年時代の総帥像を、それと全く意識せず演じるかのように、ハサウェイはスマートでカッコよい──だからこそ今後決してシャアにはなれず、神話が生んだ理想像に相応しい末路をたどるのか。

「予告」で知られた、アムロならではの凡庸な格言に連なる「ハサウェイ」の名を、優しく説き伏せつつ絡めとるような声で実際に聴いたとき自分には、主人公がその声に背中を押された、というよりもむしろ、その声が纏わりつく名を振り切ろうとするように感じられた──「ハサウェイ」は実際に発音されてみると、その愛されネーム感が際立つ。主人公は独特の響きを持つこの名に引きずられる形で、中途半端な「末路」に至るのかもしれない。あるいは、その名を呼ぶ声に導かれ、小説とは異なる結末を迎える可能性だってある──同じような響きを持つ名を捨てた「彼」にも、古谷徹ボイスで「キャスバル」と呼ばれた記憶がもしあれば、開かれたかもしれない可能性である。

などと考えながら、本作は、シャアを意識して見始めたつもりが、アムロを意識する主人公を見る形で終わった映画であるなあ、との感想を抱く。こうして「前作」の二人を作中に確認した後ではなおさら、急ぎ過ぎることなくその変化に希望を託された地上の人間に「ヒマ」人呼ばわりされる主人公がどうにも、いたたまれなくある。


今日「テロリスト」の文言ないしその名で呼ばれること自体から想起されるイメージが、良くも悪くも豊かになったこともまた、映画の理解を助けたと捉えるなら、時代が作品に追い付いた感はある──マフティー側を分類できる分かりやすい箱を、小説を読んだ当時の自分が持ち合わせていなかっただけにせよ。市街地でMSが暴れたら当然こうなる的な場面は丁寧に描かれ、我々が「見たことのあるテロ」の光景に重なることで、「戦争」──「ガンダム」で語られた途端に解像度を大きく減じる概念──とは正しく区別され、物語の構図が確認される。

いっぽうで時代に追い抜かれた点があるならそのひとつは、ガンダムVSガンダムにもはや驚きも新鮮味も感じられないあたりか。一見して無理のある絵面の機体が、どう動くのか、動かせるのか、しかも大気圏内・重力下で──などといった期待と不安はあったにせよ、このあたりの本格的な見どころ・見せどころは次回を待つことになる。

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