新聞の「腰砕け」で「両論併記」な報道のありようはしばしば政権への「忖度」などと評されるが、その記事がたえず窺っているのは読者の顔色ではないか。
「腰砕け」でない、「偏った」記事は、それが批判する与党だけでなく、彼らに投票し、または棄権することで、現政権を生み支え続ける、有権者としての読者の気分も害しかねない。そんな読者たちの政治的な責任を曖昧にすべく書かれた記事はその代償として、有権者である彼ら彼女らの主体性を損ねている──そこで読者たちは、具体的な政権与党でなく政治一般・政治家全般に対する被害者であり、時にはこれに呆れ、絶望する「国民」であっても、これを変える責任を持った有権者としては描かれない。
新聞が有権者の行う判断に必要な情報を伝えない、などといった批判は選挙のたびに行われるが、新聞自体は、読者の気持ちに寄り添って、彼ら彼女らが有権者であることを思い出さずに済むよう万全の注意を払った紙面を構成しているのではないか──などと、言いたくもなる。