賭けの境地で見るもの

雑談

「賭け」の結果は突き詰めれば自分にとって勝ちか負けかのいずれかで、勝率は常に50%だ──とまで断言できる境地で迫られるのは、私たちが賭ける選択肢や結果の見込みを判断するための「情報」が一切入り込めない薄くて短い瞬間を生きる覚悟だ、とする。例えば「六面体」という情報を遮断できれば、サイコロの出目を言い当てる確率は、当たるか外れるかの50%にまで跳ね上がる──そんな境地を生きる覚悟があるかが迫られる。ここに至って人は、合理的に考えればありえない側に賭けられる──という意味での「自由」を手にする。

  • 合理的判断から解放されることで得られる「自由」の観念について、例えばこのように説明する。
  • 50%の確率だからこそ賭けられる、と考えればその判断はむしろ合理的とも言える。
  • この境地に判断基準としての価値観、あるいはそれに満たない好悪の感情が入り込む余地があるのか。
  • 余地がないからこそ、そこに込められた価値観が脱色化された「純粋な」判断がたちあらわれるのではないか。
  • 勝率50%の合理性のみをよりどころにした純粋な判断が言論の体裁を纏えば、今度は数を頼むだろう。

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