結果は何もしてくれない

雑談

人が「備える」結果はたいてい失敗の方だから、ほんの少しの成功にすら備えがなかったばかりに、多少なり上手く運んだはずの取り組みが頓挫してしまうことは少なくない──冷静であること、慎重であることの意味が分からないまま、ただこれを装うためだけに、ことさらネガティブな結果への備えを語り、成功をイメージすることさえ夢見がちな楽天家だとさえ言って憚らない者ほど、成功に過剰な期待を抱きがちで、成功すればどうにかなる的な思い込みがあるから、実際には成功自体がどうにかしてくれるわけでもない現実を前に何もできないまま、みすみすチャンスを逃してしまう。

世の中には「成功することしか考えていない」ように見える人間がたくさんいて、実際そう見えるままの者も少なくないのだが、それにしても、何事かを成し遂げるためには、失敗以上に先の長い成功の具体的なイメージが不可欠で、一人ではなしえない取り組みであればそれは、他人を動かすための魅力を言語化することが要求される──とすれば彼ら彼女らは成功のケースだけでも考え抜くことができれば及第点ではないか、とも思える。

そもそも「備え」に割り振るリソースが限られていれば、「体力」と経験知で対処できる、成功前の失敗の側を切り捨てて、しばしば経験知の応用が利かない成功後の事態にだけ備える判断だってありうるのだ。それだけの備えがあってこそはじめて、成功につながる教訓の宝庫として失敗の結果を価値ある経験にできる──失敗は何かの失敗であり、その意味は何かに照らし合わせることで生まれるのだから。

しばしば戯画化される「無能な経営者」は、成功の瞬間までしかその考えが及ばない──実際にそんな経営者は存在しない、と断言できないのが、本当に辛いところだが。

Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像
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