スタマス体験版する

趣味

「アイドルマスター スターリットシーズン」の体験版をする。少なくともリズムゲームの端末として、そしておそらくは育成ゲームの端末としても、スマホ・タブレットより操作性が劣る「据え置きゲーム機」のゲームパッドで何を・何ゲームをやらせるのか──この点では、PS4版の過去2作と比べれて本作はプレイヤーに何かさせるゲームであり、確かに、やらされた感はあった。大画面でのうたいわけ鑑賞ソフトとしての「つぶし」に甘んじることのない、ちょっと苦めのつくりか。

それにしても、コミュ部分はいよいよ聞き通すのがキツい──ゲームの難易度をかさ上げするのはむしろ、高純度なアニメ声・アニメセリフではないのか。


アイマスにうつつをぬかす「よい大人」がする弁解のバリエーションには新旧あって、彼らは昔から言い訳ばかりしている。大昔は、そこに描かれたとされる「スポコン」要素が盾にされた。キャラクターの3Dモデリングに対する純粋に技術的な関心を強調する向きもあり、デレステベンチマークなるワードが散見された。純粋な「リズムゲーマー」としてふるまうことで、キャラクター自体には無関心を装ったりもした。

技術的なあれこれに疎く、ゲームに入れ込むほどの熱もない、というか冷めてしまった大人たちが採用できる「文系的な」弁解の一つは、巨大コンテンツのゆくすえを最後まで見守りたい、見届けたい的な思いの吐露で、かつてのようにアイマスをほかの何か価値あるものに置き換える、世間体を気にした言い訳がましさが弱まった分だけ、コンテンツへの耽溺と惰性的消費に対する自己嫌悪を正当化するためにするそれだ―──聞かれもしないのにわざわざ他人に語るようなことでなし、弁解の言葉は次第に内言へと沈潜する。いっぽうで、ふいに外へと漏れだしたそれは、例えば妙に学究的な装いを施すなどして、コンテンツそれ自体から距離をとろうとすればするほど、かえって後方彼氏的な勘違いを見透かされてしまう。バランス感覚に自信がないなら黙って隠し通すのも、コンテンツとの良好な付き合い方である──それは単にコンテンツにだらしなく浸る様を人前に晒さない程度の「節度」を保つだけの話で、「隠れキリシタン」的な何かになりきることを意味しない。

  • 純粋に技術的な興味関心を強調する向きには、「お堅い理系人間が実はアニメ好き」的な、とうに失われたギャップアピールに通じるものがあって、現れた当時から古風に映った。
  • 「純粋リズムゲーマー」はたぶんスポコンと純粋技術の派生で、そのルート上にないからであろう、育成ゲーマーとしての自己規定を見ることはなかった。
  • 気になる声優さんを追っているだけ──とかいう言い訳も聞いた。私が使っている。
  • 露悪的あるいは自虐的な居直りは自己弁護・自己正当化のもう一つの形ではないか──過剰にそれをやってみせることでわざとらしさを読み取らせ、「本当は」醒めた、冷静にコンテンツと距離をとる自分を演出するのであれば。
  • 「純粋」な「好き」が手放しで正当化される昨今にあってもなお、歌って踊ってする女の子の絵を「純粋に好き」とする告白が決して多くないのは、実際に多くないからだろう。
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