2021年11月の日記

20211130

コンサルから直接聞く話は面白いのに、コンサルから聞いた話を聞かされるのは辛い。内容はともかく説得力のある語り口に感化された者が、ともかくな内容を乏しい説得力で語るさま自体は多少見苦しかろうが微笑ましくもある。それにしても、本来助言を受けて実践する立場の者が、助言をする側から他人に実践させるコンサル的立場と振る舞いに魅了されて、こちらを「実践」してしまう、人間の弱さ、そこにまんまとつけこまれたありさまが、いたたまれない。

20211129

今となっては死語どころか忌み言葉的にさえ響く「安心安全」は元来──とりわけこの時季──場末のフリーペーパー誌面で「地産地消」「旬の食材」などと並んで踊る、軽薄で空疎な定型句でもあるだけに、政府・首相から発せられるそれを当時、いたたまれない思いで聞いた広告屋は少なくないだろう。彼ら彼女らがその時に危惧を抱いたとすればそれは、当該文句のイメージ悪化でなく、その「正しい」用法が、分かりやすい用例をもって、あからさまにされたことだろうか。

20211128

サヨクと同じことを言いたくないだけで「本当は」批判精神に満ちた鋭い記事が書けるし、自分がそれをやらないのもできないのも全部サヨクのせい──くらいに拗らせた「リベラル」な記者だって、少なからずいるだろうね。

20211127

攻撃的な衝動は多かれ少なかれ、年齢問わず誰にでもおこり得るもので、これのあらわれ方とおさめ方が「表現」とそれを通じた学習の蓄積、そこではぐくまれる想像力によって影響される。「衝動的な行動」を乏しい想像力に求めるなら、それは幅広い「表現」による学習で補われるべき、と考えられる。ところで実際にわれわれが触れる「表現」の幅は、自ら広げることを求めなければ、狭い範囲に限られる。そこではたらくのは、ある種の人々が想定する「規制」でなく、商業的効率化を求めた「表現」の厳選と淘汰、そしてわれわれの劣情と怠惰による選好だろう。特殊な「表現」に特化した学習の蓄積は、特定の衝動と特定の行動を効率的に結び付け、効率化は衝動なしに行動を待機させるまで進めば、衝動のない行動が偶発的事故として生じることもありうる──目の前に置かれた「武器」を何のためらいもなく手に取り、特に害意もなく、他人に向ける者は存在する。

20211126

暴力表現はじめフィクションで扱われる「表現」が子供とその成長に与える影響は、前の世紀から論じられていたのだから、いま成長しきった大人たちをサンプルに、かつての論が結局正しかったのかどうか、その検証を含め、引き続き論が進められて然るべきところ、当のサンプル達が子供世代への影響を云々する。フィクションの「表現」が子供らに影響するなら当然、たとえば子供らによる凄惨な事件の報道とそれを巡る評論もまた、当の子供らがものを考えしゃべるための言説、論立てに影響する。

20211125

この国の選挙で、国民の命と暮らしを守る側よりも、候補者自身の命と暮らしを守る側が圧倒的に強い理由は単純に、モチベーションの質的な違いがまずあって、そのうえで後者は権力を持っていることだ──勝つために何でもやる連中が、現に何でもできる権力を持っている──と考える時、前者の主体形成が、掲げる公約・政策云々以前に、未成熟で端的に「よわい」のだと直感的に分かる。その有意な成熟は、国民の命と暮らしなるワードが単なるスローガンを越えて有権者を捕捉し、常日頃から「側」を自覚させる仕方で成し遂げられる──政治が選挙で完結できる時代は終わったのではなく、始まってすらいないし、そもそも、政治はそんなものではない、という自覚でもある。身もふたもなく言えば、階級意識は大事、という話し。

20211124

自身の投票が裏切られた、政策でひどい目にあった、政治にしてやられたと、有権者が身をもって感じる政治経験は、次の投票行動を左右するから、政権交代期の「悪夢」が国民的記憶として記念碑的に強調された結果としてある現状は、民主主義的な選挙が正しく機能している証だと、冷笑気に言えなくもない。情報と、それ以上に経験がゆがめられている現状は、少なからず認められる。まったく身に覚えのない「悪夢」の政治経験を踏まえた投票行動に、民主主義国家の有権者たる自負と誇りを抱く者だっているのだろう。それにしても、かの政権交代期に誇張でなく「悪夢」を見た者とその利害関係者を合わせれば有権者の一定割合にのぼり、中には権力を失えば全てを失う者が相当数おり、彼ら彼女らが文字通りの死に物狂いで、自身の存在価値を賭けて臨むのが「選挙」である──その本気度合いを「現場」で痛感しているサヨクであれば、ただでさえ小選挙区制と低投票率のもと、安易な陰謀論はおろか、「有権者は騙されているから…」的な優しい言い訳にすがることさえ難しいと、「数字」を読んだ時点で普通に分かるだろう。負けがある種の(場合によっては文字通りの)死に直結する者に対して、負けたところで今日明日に死ぬわけでない者が、対等以上で立ち向かえる条件の一つには、「悪夢」以降の政治経験を旧メディアに一切依存せずに言語化して、うしなわれたものすべてを刻み込んだ記念碑を打ち立てることが、多分ある──その作品的価値は、投票行動を左右された有権者の数で冷酷に評価されるので、日ごろ諧謔的な泣き言を身内で褒め合うだけの連中には、とうてい無理な相談だろうが。

20211123

何かの欠如・ないことをズバリ指摘できそうな時ほど、そうでなく、存在するが小さく弱いこと、自身の想定とは異なるありようで存在すること、存在とは別の仕方でそれが機能している可能性を何度も検討したいところ──そして一方で「本当に」あるはずの何かが欠如した・ない「それ」を論じられるだけの言説と見識を持ち合わせているか自問したいところ。

20211122

加齢による衰えは多分、活発な運動でなくこれの制御から始まるので、手っ取り早く「若さ」を実感すべく無茶をして怪我をする者が後をたたない。彼ら彼女らが走り出したら止まれないのは「若さ」故でなく単純にトシのせいであり、当然それは肉体面のみならず精神面にもあらわれる──もっとも自制心の衰えもまた、未だ活発にはたらく弁解能力によってその自覚が先延ばしにされる。

20211121

たとえば昇りの階段を駆けあがる「若さ」を誇る者ほど、降りの階段で怪我をするのは、現に若くない身体を認識できず、これを正しく扱えないせいだとしても、自身のトシを受け入れられない程に柔軟さを失い認知機能が低下した者に対して、怪我の予防をいかに説けるだろうか。

20211120

某国の与党政府に「彼ら」が親近感を感じるのは、脆弱な自我を「強い言葉」で満たそうとする姿勢に自己の相似をみとめるからだろう──同族嫌悪なり共感的羞恥から多少とも反省を促されることなく、権力側との「おそろい」を喜べるまでに幼稚な「彼ら」の自我は、弱く乏しくある。

20211119

自分勝手にモノを言う耳障りな学者連中と比べるなら、道具として使われてなんぼの厳しい競争市場に進んで身を投じるような人間が「野心的」でなく「謙虚」と形容されるのも理解できる。

20211118

文系理系問わず自身を純粋な知識・純粋な技術それ自体に還元する者は、これを上手に使いこなしてくれるリーダー・指導者を待望し、知識人や技術者としてのありよう・責任を問われる面倒な主体性を放棄することさえ厭わない。それにしても自身の重用を求める主体性は確かにあって、それは、道具としての内実を取り除いた後に残る人間の形をしたガワと見るにはあまりにも人間的な感情に満ちている──しばしば科学者に対して抱かれる「ロマンチック」な幻想とかけはなれた、それにしても彼ら彼女なりの尊厳を賭けてたたかう主体性がみとめられる。知識人や技術者の「無責任」が批判される時は、この主体性に照準が定められるべきである。

20211117

「ネットメディア」が旧メディアに対する何らかの疑念・問題意識によって立つなら、敢えてそこに身を置く「ジャーナリスト」は当然、旧メディア・「マスコミ」、それに従事する「ジャーナリスト」を含めた具体的な人物に、取材対象としてマイクとカメラを向けることを期待される──評論とか、もう間に合っているので。もっとも、カメラを向ける、と書けば大昔、カルト教団の信者が報道陣に対してやってみせた威嚇的なそれを思い出す。「ネットメディア」のネイティブが「ネットに晒す」的な脅し以外の仕方で取材対象にカメラを向けられるものだろうか。

20211116

いわゆるRPGを自分で動かさないと動かない「アニメ」のようなものと感じるユーザーなら、実況を眺める方に魅力を感じるだろうし、一方でゲームの方は、動かす以外の仕方でプレイヤーとの関わり合いを設けて遊ばせるようになる──例えばプレイヤーにガイド妖精的なポジションを与えるなど。

20211115

今日明日とりあえず死なずにいられる根拠を、絶対に生きていた昨日に求める「悟り」だって、あるのだろうね。

20211114

明らかに周回遅れな「地域ポータルサイト」の構築と運営に時間と労力を奪われキャリアを潰された、印刷屋のweb担当者が、この国の「地方」に少なからず存在するだろう。

20211113

たとえば武将を女体化したいのと同じくらいかそれ以上に、女体を武将の名で呼びたい願望が存在するのだろう。あるいは今日、女体──ある種のそれ──を「女の名」で呼ぶことが居心地悪く感じられるステージに、彼らと女体は到達している。

20211112

結果は望まずとも行為自体は望んでやった──相手が死ぬことは望まなかったけどムカついて刺した、とでも言い換えれば明確に邪悪なその行為が、結果を志向しない純粋な行為として無邪気化される一方で、良かれと思って失敗に終わったあらゆる行いは、ことさら悪しざまに戯画化され、嘲笑の的にさえなる。かくして人類の歴史はせいぜい、ライフハックな教訓を引き出す程度のコンテンツとして消費されるに至る。

20211111

ゲーム実況動画が抵抗なく視聴される昨今だから、演出周りがよくできた「オート」進行のゲームをスキップせずに眺めて楽しむ者だって普通にいるだろうし、それが可能な者は多分、演出の良し悪しを問わないだろう。小さなシンボルをキャラクターに見立てて、それが動き回る様を楽しめる、見ているだけで満足できる者は多分、コンピューターゲームが登場した頃から存在する。

ゲームの競技性や勝利至上主義に取りつかれた者こそが、自身を打ち負かせるだけの美麗な演出を求め、彼らは今も勝ち続けている。

20211110

戦争を「大義」で正当化することに胡散臭さをかぎつける人間たちが「経済合理性」の名のもとに戦争を「価値中立的」に支持する──同様に忌避すべき政治性を帯びる非戦・反戦なる「大義」を彼ら彼女らは受け入れられない。

20211109

政治経験を責任主体として自ら引き受け言語化することなく、例えば「メディア」などにこれを肩代わりさせた有権者が生きる──政治を潔癖症的に忌避する意味で──純粋な生活経験を通じて、彼ら彼女らは自身を救う言説を、同様に純粋な「経済」に求める。

政治性をいっさい取り除いた綺麗な「経済」の論はしばしば、自己中心的な快不快と損得勘定の打算でしかない──だから、誰もがそれを論じられるように錯覚する。

20211108

限定的な文脈で「刺さる」楽曲が聴く者に与える「効果」はしばしば文脈を問わない一般的な語句で形容されるため、その評価に普遍性を錯覚する事故が絶えない。エヴァを知らない人にとって魂のルフランはせいぜいアップテンポな聖母たちのララバイで、それだって火サス抜きではただただ歌詞の気持ちの悪さが露呈してしまう。

全ての音楽が国境や言語の壁を越えるわけでなし、文脈の壁はさらに高い──同じ国、同じ言語であればなおさら、分かってしまう。


営利企業のサラリーマンが金もらって書く作文でもジャーナリズムと呼べるなら、新聞報道は決して死んでない。

20211107

どこに行ってもやっていけるための後ろ盾が誇りで、足かせがプライド、みたいな話し──自身の経験なり知識なりになんらかの自負がありながら、これを後者にしか「翻訳」できないのは、前者に該当する概念を本人が知らないか持たないか、必要としないからか。自尊心が無いか薄弱であれば、自己肯定感を求められても、自分を不当に盛る以上の発想ができず、結果としてそれを実践できてしまえる者──自尊心も倫理観も乏しい子ら──が幅をきかせる惨状は、痛々しくある。

「誇り」を明後日の方向から調達しようとする──これも同様に、自尊心を欠くゆえの性向なのか。

20211106

できもしない国外逃亡を仄めかす者らには、今更ですか、今まで何やってたんですか、などと上から目線で返したいところ。しばしば指摘されるように怠惰・愚鈍・邪悪が日本人の三大要素だとすれば、彼ら彼女らは少なくとも最初の2つを踏んでいる──どこの国に出しても恥ずかしい、普通の日本人である。


「今だけ金だけ自分だけ」のうち、「今」の期間はどれだけか──何もしないで死なずにいられる間か。

20211105

常日頃、数行の短文で1エントリ費やすことに抵抗を感じ、大昔のWeb日記形式を試みる。


自分のことを差し置いて、他人に「前向き」「ポジティブ」を説けるわけでないにせよ、絶望的現状認識を冷笑交じりに開陳してみせる「サヨク・リベラル」には、じゃあ君は死ぬの?と、問い質したいところ。死にたくない、ただそれだけなら、少なくとも彼ら彼女らが正しく唾棄する連中とさほど変わらない──現状維持なら少なくとも今日明日は死なないし、明後日は明日の今日明日だ、などと、保守的悟りに遠からず至るだろう、漠然とした死への恐怖は、たやすく人を飼い馴らす──何かを強いるのでなく、当面死なないことを分からせて何もさせない。かく生きたい・生のありようへの強い意識と執着こそが、それを踏みにじる者らへの怒りと抵抗に力を与える──サヨクなら、生き様を示して見せろ、という話し。

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