20220330
実践の前から何事かを分かったかのように論じる理論家に比べれば、「やってみないと分からない」に終始するだけの者たちこそ、「現場」を知る現実主義的に映ることもあろうが、可能な限り多くの情報が求められる実践前のタイミングでその知見を言語化できないそれに値打ちはない──ある種の人らが好みがちな「現場」は実践の外側で、実践のずっと手前から始まり、彼ら彼女らの言い訳で満たされた今ここを当然含みながら、その認識に欠けるのは、狭量なる「現場」意識故と言うほかない。
20220324
「彼ら」が望む、「社会」「政治」に汚染されない純粋に自前の主体性が、好悪感情、快楽原則そして損得勘定からなる原始的な経済学によってかたちづくられるなら、そのテキストには柔軟に改訂を繰り返すキャッチフレーズの集積が相応しかろう。もっとも「彼ら」にとってのそれは、自らの思考を経由して何らかの教養を身につける文字通りの教科書でなく、唱えることで直接それになる当のものである──何の気負いもなしに強コスパで主体性を獲得する様は一見クールに映るものの、その実出来上がるのは、ずいぶんな優等生ちゃんであり、それにしても「クール系優等生」なる自己規定を好む「彼ら」にとっては、それもまんざらでないだろう。
20220318
ある種の「考えない」者は、積極的に「考えない」を選び取るのだから、差し迫った状況に身を置いてもなお、とりうるかぎりのあらゆる仕方で柔軟に、「考えない」を実践するだろう。
20220317
ある種の炎上リスクを恐れて「社会的に」表現可能な範囲を予め把握するべく明示的な「検閲」を権力に求める者がクリエイターの庇護者として立ち現れかねない昨今である。
20220315
大人の立場から彼ら彼女らが考えたなりの「子どものため」に作られた作品・コンテンツが、「子ども」ならざる消費者の目に幼稚と映るのは当然で、それにしても、作り手の「子ども」観に対する共感ないし反発の形で「子ども」用の枠を超えて大人がこれを受容することが特に不自然に感じられないのは、大人にとっての子どもが普遍的なテーマの一つだからに過ぎない。一方で、かかる手垢のついたテーマ設定ではとらえきれない子どものリアルを自分なら分かってやれるとでも言いたげに、凡庸な大人とは違うつもりの子どもならざる者らが、凡百のコンテンツを世に問う自覚もないまま垂れ流す様にも、われわれは別の幼稚をみとめるだろう──それは遠からず人を、成熟なるひときわ古典めいたテーマに向き合わせる幼稚である。
20220310
正確確実を要する業務の効率化が正確確実の効率的な実現を目的とするかぎり、その追及自体は間違っておらず、「効率化にそぐわない」的な批判は必ずしもあたらない──それにしても効率化にこだわる者が人がしばしば手段を目的化する様には、「効率」観の貧困よりもっと単純に、正確確実を要求される面倒な仕事を、ただやりたくない一方で、達成の栄誉には執着する俗物根性が垣間見える。彼らは効率的に栄誉にあずかるべく、コスパの悪い目的を削ぎ落す。
20220309
「ゆるキャラ」ないしその後継者らの押し付けがましさは、それがどこにでもあること、しばしばTPOをわきまえることなくそうあることが当たり前のように振る舞う様にある──当然、本当にどこにでも存在することは、その「所有者」が決して許さないのだから、侵略の対象は周到に選ばれる。コンテクストの妙が築いた特定の価値が占める場所を空けるよう迫り、これを粗末に扱い、顔色ひとつ変えず公然と破壊してみせる──彼ら彼女らは仕事を選ばないようでありながら、飼主にのみ忠誠を誓うエージェントであった。
20220306
自分の推しキャラ名が連呼され、速い強いすごいとべた褒めしてもらえるウマのレースは、ログインするだけで褒めてもらえる直接的な「おもてなし」にかえって居心地の悪さを感じるプレイヤーにとって、当時は新鮮なホスピタリティ体験ではなかったか──などと、赤くて速くて強いかのウマで18枠敷き詰めたエキシビジョンを眺めながら思うなど。
20220305
知識を得ることで考えを改め行動を変えることなど滅多にない一方、余計なことを考えずとも実践できる、不作為を含んだ行動には、しばしば劣情を煽るささいな入れ知恵で流される程度に、人の意思は薄弱で、その本質は怠惰である。事実を知れば人は変わるはずで、そうならないのは知らせ方が悪い、的な発想もまた、性善説以前に、一方的に知らせる側に立ち、知った人が行動を改めるに任せる、人一般の怠惰として映りかねない──そうでない仕方での知らせ方と知り方が模索される中で生まれたわけでは多分ないにせよ、「デモ」は知らせることと知ることをなんらかの行動・活動を通じて文字通り実演して見せるものではないか、と思えなくもない。そして、無秩序に流される都合の悪い情報よりも、知ること・知らせることが無力でない事実こそが隠される──知に対するニヒリズムみたいなものを、ある種のメディアが実演して見せる。
20220304
学問の端緒として設定される「何」が、人畜無害で素朴な問いかけよりも、理不尽に対する激しい怒りに近いなら、とりわけ社会科学に力を与えるそれが「答え」によって容易に満たされようはずはない──学問は漠然とした問いでなく怒りに対して持続性と継承性を備えるべく与えられる形であり、行儀よく整った「冷静な」問題設定でさえしばしば、怒りの周到な生存戦略である。
20220303
行動力を力の制御能力と捉えるなら、的確な判断力を支える知性は欠かせない──優れた行動力の持ち主は、間違ったことを実行せず、間違ったら正して、これをやめるだろうし、いかなる偶発事態に陥ろうが、柔軟にこれをすべて実践できる。いっぽう、偶発的な事態そのものに背中を押されるがまま振る舞うことしかできない権力者が動員するなけなしの知性は、判断よりも正当化のためにはたらき、継続という形で実践にフィードバックされ、引くに引けない状況を糊塗する新しい価値と言葉を都度創造するばかりだろう。戦争が終始、偶発的事態と間違いの連続だとすれば、たかだか人の行動力で制御できる代物ではない──権力者に戦争をさせない仕組みは、人が自身の能力の限界を自覚したうえで、それでも乏しい知性でギリギリ到達できる英知には違いないだろう。
20220302
間違った理屈と浅い思慮、甘い見通しで実践される愚行を称賛する者が羨むのは、誰にもできないことをやってのける「行動力」でなく、愚行ですら誰にも止められない「権力」である──それにしても、日ごろ「やらない・できない」ことに対して物凄いコンプレックスを抱く者にとって、かの権力が体現する純粋な行動力は、彼の脳を容易く麻痺させる程度に眩しく映るだろう。
20220301
「一周年」を迎える直前の先月半ばごろからウマのアレを再開している。武者ガンダムみたいな配色のキャラが手に入り、気をよくしたから──という理由は否定できない。それにしても、育成済みのキャラを走らせる「MV」的な機能を知って以降、先般育成がある程度簡略化されたことも手伝って、ミニ四駆感覚で毎日一台ずつ組み立ててはコースを走らせる暗い遊びが大変捗る──今後実装が期待されるのは当然「メドレー」機能だろう。