「サブカル」の社会的地位などと

雑談
ComfreakによるPixabayからの画像

ゲームやアニメ、マンガといった、ひどく限定的な意味での「サブカル」が公的にとりあげられるたび、その社会的地位向上を言祝ぐある種のファンらの少なからずが、その後実際に向上した社会的地位の内実を語らないのは単純に、向上すべき具体的現状を知らないか、知っていても他人事だからである ──他人事、というか、そもそも立場が違う。

たとえば「サブカル」の供給側が、「サブカル」であることを理由に劣悪な条件でいいように買い叩かれる現状を訴え、「メインカルチャー」と同じ条件で仕事ができるようになれば、「サブカル」の社会的地位が向上したと言えるかもしれない──それは「サブカル」の社会的な評価・価値が上がれば、そのおこぼれで自然に実現されるものではない。

いっぽう、安く買い叩けることで成立する「サブカル」の需要側が望むのは、何よりもその「安定供給」であり、搾取構造込みの消費のありようが現状のまま維持され、正当化されることまで求める。そのために使えそうなら、彼ら彼女らがふだん無関心を決め込み、しばしば嫌悪感を示しつづけた「社会的地位向上」を求める政治的・社会的運動の「物語」を簒奪することさえいとわない。もっともその「物語」は、「サブカル」がその価値(=スゴイ)によって社会的評価を高めたあかつきに供給側の待遇が改善される、トリクルダウンじみた筋書きが好まれ、また供給の立場から描かれるとしても、携わる者たちの純粋な「好き」の力で、現場と業界の問題を解決することなく「浄化」するファンタジーが採用される──働く者の人権を「声高に訴える」説教臭いエピソードは萎えるのだろう。

  • 携わる物事の価値に応じた扱いを求めることは「メイン/サブ」の差別的扱いの温存につながり、「カルチャー」が多様化するもとで両者が価格競争させられるなら、遠からず条件は悪化するのだから、本人らの好き嫌いやら主義主張にかかわらず、そこで活動する者の尊厳と人権を求めることから逃げ出せば、現場からの運動であっても遠からずジリ貧である。
  • 彼ら彼女らは消費者運動の主体ですらないし、むしろ生産者運動を起こされる側でさえある。そうならないのは「おまえらに言っても無駄だから」でしかない。
  • 「社会的地位の向上」なる文言は、彼ら彼女が普段からそう思っている通りに軽々しいきれいごととして響く──物語にタダ乗りする者は、代償を払わない以上、言葉に一切の重みを与えられない。
  • ファッションゲバラの言葉にだって、Tシャツ分の重みはある。
  • スポーツそしてアスリートが社会的地位の向上を実現する過程で何を「代償」にしたのか──その一方で勝ち得たもの、社会的地位の内実は何であったのか。いわゆる「サブカル」とスポーツがだらしなく融合した2021年の東京オリンピックをうけて考えたことがそれだ。
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