20220430
「ウマ」のアレにて「開運グッズ」で身を固めたキャラが良い感じに育ってしまう──自分の好きなものをじゃらじゃらぶら下げたコスプレにリュックを背負った姿は、奇声交じりの奇矯な口調もあいまって、戯画化されたある種の消費者を最初に連想させるところ、ユーザーに少なからず存在する彼らの心境やいかがなものか。
それにしても、コスプレした女の子が疾走する姿は今日、コンテンツ自体の「しょうもなさ」を消費者に自覚させる棘として機能しないばかりか、ある種の消費者の良識を麻痺させる──彼らは無防備なままこれに耽溺することで、かの自覚どころか、コンテンツを「真に受けてしまう」ことさえある。あからさまなフィクションに「どうせ分かっているから」とたかをくくり、相応の位置づけを与えることを怠れば、受け手とフィクションとのだらしないかかわりかたは遠からず、フィクションでないものとしてある「リアル」の認識を歪めるだろう。
20220429
その時々のアガるワードを前後に添えた「名前」を書き連ねて評論を気取り、挙句それを連呼する──「彼ら」の定型的振る舞いと消費行動を的確に落とし込んだ、リアルな競馬のデフォルメとしてある「ウマ」のアレに、ある種の界隈をめぐるマーケティングの到達点をみとめたくもなる。その一方で、案外あっさり到達されてしまった様に、界隈の底の浅さを人は改めて知ることとなろう。今にして思えば、配信開始時の「原神」に対して抱いた、いかにも「見透かされている」感にはまだ、それを──ときには被虐的に──楽しめるだけの余裕、あそびのようなものがあった。これに対して「ウマ」が本国ブランドとして見せつける一日の長は、「セールス」としての数字にとどまるものではない──数値化できないそれが肝心の数字につながらない理由の一端には、ユーザーを見透かすどころかこれに密着し過ぎた結果としてあそびの生じる余地がなく、マーケットにはそれを展開するだけの深みもないからだろう。
20220428
今年の3月中頃からずっとウマのアレをやり、今にいたる──メインストーリーを読み終えて、やや思うところがあり、二ヵ月近く付き合ってしまう。人々がある種の「想い」と願望を込めて呼び、叫んだ名前のこだま、あるいはそれに作用された何かとして「ウマ」を解釈すれば、彼女らは同じ名前の「馬」それ自体となんら関係のない存在で、「馬」の意思や想いを共有することもない。これはコンテンツ側のわきまえ・自制心みたいなものとして映る──たかだか人の手による慰み物が「馬」を騙ってその想いを代弁するならそれは傲慢の誹りを免れない。コンテンツが──おそらく権利の上でも──「名前」以上のものを使用できないなら、かの世界観が慰めるのは、別世界を生きる・生きた「馬」の無念でなく、彼ら彼女らに届くことのなかった、「馬」の名を呼ぶ人の声である──人の声の物語が「美少女」に癒されるそれとしてパッケージされるなら、少なくない人を不快にするのは当然か。こう考えると「実在」しない名を冠する「モブ」の名が人の音声を伴わない「設定」に納得できる──「彼女」らが「名馬」としてありえた可能性、あるいは未来に叫ばれる声が、我々には聞き取れないか、我々がその声にまだ届かないのだ。
20220420
若さは日々失われる一方で、幼さは意識的に克服されない限り残り続ける──これを若さと勘違いした者らの振る舞いこそが「老害」と呼ばれる現象の正体だとすれば、老いでなく幼さに由来する害悪の表現としてその造語は造形的に間違っており、せいぜい「幼稚」と呼ぶにとどめるべきだ。それでもなお、かの誤った表現を好むのは、若さの価値に固執する、むかし若かった者らである──「老い」自体に無価値を押し付けて、容姿と口先でこれを遠ざけ「若さ」の側にしがみつく以外の仕方で自身の存在価値を確認することができないとすれば彼ら彼女もまた、自身の幼稚を若さと面白がって、これを克服するための若い力と時間を空費させた、「若者の理解者」と称する大人たちの被害者である。
20220416
「仕事のできる人」語りが流行った当時、たとえば「ぼくがかんがえたさいきょうの」話法になぞらえるなどしてて、それが揶揄される場面は少なかったように思える──たいていの語りが「仕事のできない人」の特徴を論い揶揄するそれに終始したせいだろう、両者の志向は同じであった。世の「現場」には少なからず、仕事をさせる仕事の巧い者がおり、彼ら彼女らのもとでは、必ずしも「できる」とは言い難い者らでさえ、与えた仕事をこなすだけで万能感に浸ることができるものだが、せっかく得られたそれを、優越感の形でたえず確認しようとする者も決して少なくなかった。
20220411
今日おおくのゲームがキャラゲーに位置づけられるところ、ゲーム界隈の言説セットは尽くキャラ愛からかけはなれた構成で、感想サイトどころか攻略サイトのテキストにさえ苦痛を感じるプレイヤーも、少なからずいるだろう。それにしても、キャラを大切にしない、むしろぞんざいに扱うことでいっぱしを気取るかの「風潮」は、狭く偏った意味での「サブカル」界隈に好んで受け入れられ、たがいの言説を磨き合っている──それがまねくのは両者の先鋭化でなく、摩耗であった。
20220410
広告業者がクライアントの求める成果を広告制作それ自体にずらすことは職業倫理に悖るとしても、仕事と責任の範囲をたえず明確にすること自体はむしろ倫理的である──さほど難しくもない両者の区別を知りながら、それがさも曖昧であるかのように振る舞うクライアントは人倫に悖るかもしれないが、彼ら彼女らに理論武装を施すのは、当の広告屋の経営指南だったりする。
20220404
中長期的に成長の見込めない企業なり業種につくコンサルはしばしば、クライアントを盛って客を取らせるので、職場の士気と空気が目に見えて悪化する──その理由は、業務の激化以上に、「嘘」への加担に伴う精神的な疲弊である。