0時帰宅が続いた頃は、帰宅してから次に出勤するまでの数時間を少しでも濃密に生きるために、かえって余計に消耗していた感がある──濃密というか「永遠」に生きられないか、とすら考えたものだ。
今の直後に訪れる極めて短い時間の「中身」は、今と殆ど全く同じだとすれば、その次の直後も、そのまた次の直後も、無限に同じ「中身」を過ごせないか。私たちが変化を認識するためには、変化前と変化後の間の時間を要する、とすればその情報を読み取れない、極めて短い時間を想定した上で、これを無限に重ねることで、今と同じ「中身」を永遠に生きられるのではないか──と錯覚したものだ。
決して短くない、一分、一時間であっても、変化を認識できない程度に漫然と過ごすなら人は、同様の錯覚に陥るかもしれない──それだけの時間があれば、次の一分、次の一時間に、今の「中身」を大きく変えるドラスティックな出来事は起きない、と経験的に「学習」し、それが「現実的」だと言い張るようにさえなりかねない。「変化」の情報から遮断されれば人は、今日と同じ一日を明日以降も無限に生きられるように錯覚するのだ。