私たちが日々たずさわる、さまざまな「とりくみ」の現場では、「意識」を求められることが少なからずある。たとえば私のような人間が教条主義的に拒絶しがちな、そういった要求はしかし、必ずしも精神論・根性論に直結しない。
「意識のあるとりくみ」の反対は「意識のないとりくみ」であり、「漫然としたとりくみ」と言い換えることもできる。そして「漫然とした」とりくみは良くないと直感的に分かるだろう。
では、「漠然としたとりくみ」の反対は何であろうか──精神論や根性論へと逃げ込むことなく、この問いに答えることが、例えば私のような人間に求められるのだ。