20220131
チラシやフリーペーパーみたいな紙媒体には多分、人がそれを手にとり開いて目を通す一連の行動が組みこまれているから、そこにあるものが広告宣伝だらけの「コンテンツ」と分かり切っていても人は、惹かれるように一連の行動を起こし、結果的に一定の広告効果が生まれる──この効果が外見上「コンテンツ」の魅力によるものとして誤解されると、種類の異なる媒体で同じ「コンテンツ」が使い回され、紙媒体のような効果が上がらない原因は専ら「コンテンツ」のクオリティに求められる──それにしても、広告だらけと分かっているウェブサイトを見に来る者などいるだろうか。
20220130
出典の怪しい「格言」をひいて、成果物を与えるよりも方法を教え仕組みをつくるよう説教を垂れる者はたいてい、人にものを教え、仕組みをつくり、そして人が学び試行錯誤するコストを、自分以外に転嫁できる立場にあり、先のコストが先行する成果物で補われるほかないことを想定できないため、相も変わらず続けられる成果物の「バラマキ」に苛立ちを隠せない。一方でかの説教を真に受けた──説教を垂れ、方法論を売る、という「方法」を真に受けた──界隈には、似たり寄ったりの安っぽい方法論、釣りを知らない者がこしらえた粗末な釣竿がたちならぶ。
20220129
働かずに食うメシが美味くないとしても、無為徒食の負い目から逃れるための口実や、美味くメシを食うための腹ごなしを、仕事以外に選べない「症状」が健全とは言い難く、それが休日の食事から味わいを奪っている。働くことと食べることの関係は、かの「格言」に宿命づけられたかたちに限られることなく多様性があってよいし、それが互いを豊かにする。生きるために欠かせない食が生きる者すべてにゆきわたることを善とするなら、この実現を促すどころか制限を設けることの正当性が、人の活動の一つでしかない労働に認められるのか──すべての人を食わせる方法は、ひとりひとりの勤労と無関係に求められたい。
20220127
かの感染症に限らず、検査なり調査なりの結果が有意義に活用されるためには相応の社会インフラが必要で、その意義が理解されるだけの知的水準と、それが有意義に活用されることへの信用もまた、社会インフラに含まれる。「検査」自体は直接的な「効果」を持たない──社会インフラの長期的な弱体化の果て、例えばかくも平凡な事実が、インテリどもに隠され続けた「真実」として、発見されるに至る。
20220126
待合室に設置されるテレビが漠然と「広告」に感じられるのは、特定の思想信条を「広宣流布」する映像内容以前に、この種のものを含む映像、音と光がその場にあることを甘受するようわれわれに強いる存在の仕方ゆえだ──それは待合室をタダで利用する対価であると同時に、例えば単にその場で一息つき寛ぐような、「待つ」以外の不当な目的外使用を排除するアート、公告芸術でもある。そして、きょうびテレビの置かれた待合室を利用するような者たちには、相応の対価で「広告」を取り除けるプレミアムプランなど、はなから用意されていない。
20220125
かの感染者数が百万人、一千万人にのぼろうとも、世の多数派にとっては少数派にすぎず、彼ら彼女らはこれを少数派相応に扱い、いずれ扱うことをやめるだろう──それが健常者特有の傲慢か、多数派の暴力性なのか、その掛け合わせなのかは知らない。
20220124
状況に応じて求められる配慮を自前の感受性と想像力から導き出せない者は、主に失敗の経験とつまらない座学を通じて、想像力とその使い方を豊かにすることで、ようやく、しかし案外容易く、これを身につけられる──配慮や思いやりは学んでわざわざ身につけるもので、感受性任せにその自然発生的な発現が待たれる代物でないばかりか、感受性がその発現を拒もうが問答無用で求められることさえあるのが配慮である。それにしても、学びに長けた者に配慮の欠如が見られる場合は、学習の不足以上に、その機会を得られず育った──他者一般あるいは特定の他者への配慮を求められないまますくすく育った──彼らの「悲しい過去」に憐れみをくれてやればよろしい。
20220123
高度な知性を備えた者の、配慮を欠いた幼稚な言動や振る舞いはたいてい、時と場合そして相手を周到に選んでなされるため、ここに想像力の欠如を見るよりもむしろ、限定的に使われるそれを培った教養の程度に着目したい──彼らは案外、お勉強が足りていないのではないか、と分かることもある。
20220122
他者への配慮なり親切・思いやりは、生来の感受性から直接的に導かれず、各人の培った想像力を介してその形が規定される──そして、想像力とその使い方に豊かさと多様性を与えるのが教養である。強い感受性を持ちながら、むしろそれゆえ、保身と身内贔屓に汲々とする者にはたらく想像力は、乏しいというよりも、感受性をループさせる形で彼らなりの配慮を規定する。
20220121
今週はアマプラの中国アニメをいくつか一気見する──人名がいちいちカッコ良く、なおかつ殆ど覚えられないものの、各キャラクターが明確に描き分けられているから、話されている人物の顔が名前以外の文脈から自然に浮かぶため、見る分には特に問題がない一方、絵と文脈から離れた場所に書かれた作中の名前が特定のキャラクターに結びつかず、「完走」後の批評・感想あさりで苦労する。
20220118
アマプラの動画をつまみ食いしている。中国ドラマの「難易度」を上げる理由の一つは多分、名前の覚えづらさで、字幕版よりも日本語吹き替え版の方が辛いように思える──日本語吹き替え音声の中にカタカナで交じる中国語の人名がスムーズに処理できない日本人は、とりわけ韓流コンテンツの洗礼を受け損なった界隈に、少なからずいるだろう。カタカナを羅列した字面とキャラクターが結びつかない場合は、間に漢字を挟んで、先のカタカナ読みを脳内で再現できるまで挟んだ漢字を睨むようにしている。漢字を媒介にしてカタカナとキャラが結びつく──ように思える。実際のところは、漢字から読みを再現できるまでに至ることで、当初のカタカナの羅列をいわば「わがもの」とし、他の文字列と区別して自由に使えるようにしたうえであらためて、これをキャラに正しく紐づけるのだろう。
20220117
今後もしも、彼ら彼女らの望む「改憲」が成し遂げられた暁に、特定の条文よりも真っ先に法令の名前にあるNIHONがNIPPONに差し替えられるようなことがあれば、JでなくPに強く執着するさまを目の当たりにした世界もまた、日本人の蔑称をJapからjaPあるいはPonあたりに改めるだろう。
20220116
映像の内容と、これを見る立場・条件の関係が視聴経験を構成するなら、災害報道が伝える被災地の生々しい映像の視聴経験、その積み重ねから人が学び身につけるものは、同じ災害がいつ我が身襲ってもおかしくないこと、これをわがこととして受けとめ備えることよりもむしろ、毎度のごとく自身は被災することなくニュースを眺める、その経験が培う他人事感、そして災害が自分を避けて通るかのような錯覚ではないか。映像をわがこととと受けとめられる想像力が、日ごろの視聴経験から培われることは多分ない。
20220115
ある種の「文化」消費の優等生は、彼らの意にそぐわない「表現」商品の隆盛に、自身の真面目で大人しく、従順で勤勉な消費が報われずに、たいして消費をしているように思えない「あいつら」ばかりが優遇されることに苛立ちを募らせるかもしれない──優等生的な消費成績をたてにして、密かに憧れる「ワル」な攻撃性を「あいつら」に向けることだってあるだろう。
20220114
メディアにとっての報道がユーザー獲得のためにつくられる自前コンテンツの一つなら、その目的が既に達成された、あるいは、それによる目的達成が困難と分かれば、利益の見込める別のコンテンツを用意するだろうし、それを自前でこしらえずに済ませられるなら、そうすることでメディアとして自身を純化する──賢明なはずの彼ら彼女らが、カネさえ払えば何でも載せる意味での「価値中立」を徹底することで権力をけん制する、みたいな青臭い自己規定に陥ることはなかろうが、一抹の不安は残る。
20220113
権力を握った政治組織が行政を通じて自身のためにばらまくカネは税金であり、行政を通じない場合もそれが疑われる──特定の政治組織からカネをもらっている的な漠然とした表現は、権力の有無を意図的に無視することで人を「誤解」へ導く。
20220112
昨今広まる感染症の「弱毒」性に対する過信と油断に、死ぬこと以外の膨大な被害・加害のありようを想像できない・しようとしない、かの定型句が人の認識に与える深刻な実害を見るなどする。
20220111
特に意識せずとも健康が保証される豊かな時代には、不健康な生き方が反骨的に映ったこともあろうが、豊かでない昨今、反骨的な人間が健康にしぶとく生きながらえることの意義を考えるなら、それが錯覚だと気づく──容易に気づいてしまえるからこそ人は、反骨を名乗る以上は反骨的実践が当然に求められる健康体よりも、実践をあてにされない不健康体に憧れるのか。
20220110
言い訳や弁明の「なげやり」は、その中身よりも、そこらへんに落ちているフレーズを手当たり次第に拾った感と、拾われたそれの貧しさで「表現」されてしまう。
20220109
休日の朝から本を読んで過ごすことが、以前は勿体なく感じられたものだが、実際のところ紙の活字は日の光で読むのが一番楽で、あと眠くならない。
20220108
「無表情」と聞けば引き締まった顔立ちの無口なキャラクターや無機質なロボットを想像し、これを容易く自分に当てめてみせる者も少なくない。もっとも、かの表情を維持できる筋肉は、日ごろから感情や言動に合わせて表情を作ることで、あるいは作らないよう相当意識して、鍛えられる──とすれば「彼ら」はさしあたり、喋らないだけで閉じたつもりになっている、自身の緩んだ口元に意識を行き届かせるべきだろう。自身の感情に都度向き合い、これに相応しい声と顔を作ることで他人と向き合うことを怠った者の相貌は「無表情」に違いない──それは決して機械的と言い難い、有機物の塊となり果てた人間の一形態ではないか。
20220107
動画系サブスクで「元をとる」など、いかにも貧乏くさいがそれにしても、見るに値する作品の取捨選択に時間を費やし倍速で消化してでも自身に有意な「差分」を回収するくらいなら、何度でも見られる好きな動画をだらだらリピート再生する方が割に合っているし、それができない者は動画系サブスク、というか趣味としての動画鑑賞に向いていない。
20220106
寝て起きたら仕事だから寝たくない的な誰もが陥りうる錯誤は、合理化された呪術、あるいはその残り滓みたいなものではないか、などと考えながら今夜も睡魔に負ける。
20220105
夜更かしには身を蝕む貧乏性的な側面がたぶんあり、眠くなる前に寝ることで人はようやくこれを克服できる。
20220104
この年末年始は今までになく早寝早起で過ごす──その日のうちに寝る。夜更かししたところで、結局たいしたことはできない、実にならないことを、わが身をもって十分に証明できた末に至る境地──これもまた諦念にちがいない。
20220103
biの受給条件として勤労が要求されるなら、経営者は従業員に仕事を売るだろうし、行政が指定する事業所での就業が受給資格とされるなら公然とたちあらわれる官製の貧困ビジネスが福祉にとってかわる。いっぽうで、指定から漏れた事業所のサードパーティー化は、「純正」と異なる報酬が支払われることで加速し、これが流通あるいは別の仕方で経済圏をかたちづくるとき、カネのありようが相対化される。もっともかかる経済圏へのアクセスが特権でしかないかぎり貧乏人は、最も容易く「安く」アクセスできる経済圏で流通する「純正」のカネに頼るほかない──通貨は権力の媒体としての側面を露骨に示すだろう。
20220102
世間に身を置きながら同時にこれから距離をとりたい者達が「趣味」を持つとき、「趣味」は彼ら彼女らの非社会的な内面、その願望を見出してこれにつけ入り、自身の虜として「趣味者」を世間に送り出す──そして送り出された者達は今なお「趣味」に護られていると信じ、自身が世間に晒されていることに気づけない。厭世家気取りの者が、世間に背く「悪趣味」に惹かれるのは無理ないとしても、「悪趣味」は遠からず自身の「趣味者」として、かの厭世家たちを世に放つ。世間と自身を隔てる壁は少なからず自身と世間の関わり方を規定する。「悪趣味」などは世間との付き合いに十分長けた者の嗜みにこそ相応しく、専ら壁を求める者が依存できる代物ではない。
20220101
若い頃にする「創作」を、自身が凡庸な俗物でないことの証明だと信じた者は、自身の凡庸さをいちいち証だてる、歳食ってからのそれに、意欲を持ち続けられそうにない──同じことはスポーツ、芸事、お勉強、あらゆる趣味や嗜みに当てはまり、中高年一般の意欲減退に追い打ちをかける。せいぜい十人並みでしかない自分というものを正しく理解できる高度な知性は、この事実に耐えられるだけの精神的成熟を伴わないとき、他人の凡庸を執拗に嘲笑し、一方で非凡の脚をひっぱる攻撃性の形で発揮される──ここで「表現」されるのは、諦念の対極にある未練である。もっとも精神的な成熟などは多分、不貞腐れて黙り込んだり自嘲気味に居直ったり程度のものに過ぎない──これに受容だの諦念だのと体裁を与えて、いいように自分を言いくるめるのも知性の仕事である。