20220227
戦争がそれでないものとして始まり正当化される様を見るにつけ、戦争でないものが国を挙げて煽られ、戦争の文脈で報復が正当化された今世紀初頭を思い出し──起きている事態を考え説明するには漠然とした概念ないし単語である「戦争」の濫用に危惧を抱く一方で、それが「反戦」の形で国境を越えて世論を形成する要としてはたらく役割も過小評価できず、それは少なくとも現時点で今世紀に見出せる、危うい美点ではないか。
20220222
「バカを侮るな」とする警告は、常識はずれの「異能」をそこに見いだすことでなく、これを軽視せず社会的害悪として重く受け止め直視するよう促す──そして同時に、前者への誘惑を常に警戒するよう求める。「バカを正しくバカと呼ぶ」ことは、現象のおおまかな把握に役立つとしても、その呼称自体が、事態の嘲笑的な軽視と「異能」に対する憧憬の両方に通じるかぎり、他に相応しい単語があればそれに替えた方が良い。その言い換えを要するのは、ある種の「政治的正しさ」ゆえでなく、事態をなあなあで済ませることが許されない、例えば政治の場面に不適切だからだ──そして、人がアホ/バカ呼びをやめられないのは、事態をなあなあで済ませたい、怠惰ゆえであり、足りないのは配慮や気遣いでなく誠実さ、あるいは単にやる気である。
20220221
常識と良識を踏みにじり実害の形で結果を出す、行動力と決断力を伴ったバカの「能力」を「価値中立的」に評価できる自身の判断力を「冷静」と自負する者も少なからずいようが、例えば飲酒運転による交通事故を行動力と決断力で語る者がいれば人は、彼ないし彼女にとりあえず落ち着けと諭すだろう。
20220217
効率的な方法を知らないか不慣れか、あるいは方法自体に対して反抗的であるせいか、「若者」の行動はしばしば非効率的で、それゆえ非効率を厭わずに結果をものにする行動には「若さ」が見出される──この前提は効率云々をねじ伏せる可処分時間と非効率を糧にする学習能力で、後者を欠けば「若気の至り」として終わり、前者も欠けばそもそも若くいられない。若者から暇を奪うことの罪深さよ。
20220216
「活動家」の高齢化が問題にあがるとき、ネットの軍師諸氏は、年寄りなきあと自身の手足としてより長く使える存在としての「若者」の獲得を「現場」に迫る──当然「若者」は若いほど良い。だから、「活動家」の声が届く範囲でとりあえず元気に動ける人手をかき集めた結果、同じ年寄りばかりが参加する、いつまでたっても若返れない「現場」に対して、彼ら彼女らは苛立ちを覚えるのだろう──高齢化社会が進み分厚い有権者層を形成する年齢層を軽視するなど、リアリストな軍師様らしくない、などと揶揄もしたくなる。「若者」を意識して「活動」を停滞させるくらいなら、同じ問題意識を共有できる同年代の人間同士でつるんた方が良い──みたいにしたたかな戦略は「現場」になく、たいていは深刻な人手不足のもと、その場しのぎ的にそうなっただけにせよ、年寄りは死んでも構わない的な主張をもはや隠さない社会では特に、利害を同じくする層が、年代・世代のくくり以上に広く形成されうる。「シルバー民主主義」上等的な居直りが、さほど不健全とは思えない。
20220215
ネット上で軍師気取りのサヨク連中が「若者」の支持離れに焦り、自慢の「ネット戦術」を旧態依然な「活動家」に伝授した結果、一向に「若者」をとりこめないばかりか、従来地に足のついた「活動家」をタコツボに閉じ込めることになっても、彼ら彼女らは無答責を決め込むだろう──たとえば「若者=ネット」的な発想こそ旧態依然であることくらい、リテラシーの高い彼ら彼女らであれば当然分かっていながら、なお「ネット戦術」以外の提案を出せない理由は単純に「ネット」の外部で「活動」に取り組む意思が一切なく、それを自覚しているからだ。
20220214
ウマの育成シナリオに物足りなさを感じてしまうのは多分、ここぞの場面にスチルがないからだろうし、それゆえに──スチルが出るある種の「ゲーム」とは別の──「ゲーム性」をそこに見てしまうのかもしれない。だとすれば、立ち絵とレースのアニメーションは動くスチルでなく、FC・SFC時代のドット絵人形劇の延長に位置づけられる。
20220213
「狼」と聞いて連想される特徴の一つは「群れるのが好き」なのだから、自身をそれにたとえるさまは決して格好良く思えないとしても、本人らが「勝ち組」への所属を誇示したいのであれば、その言動や振る舞いを、思い上がりないし勘違い呼ばわりすることこそ的外れのように思える。
20220212
女こどもを武装して戦わせるために「世界」が量産されることを非効率・不経済と捉える向きはあるにせよ、それでまわる「経済」もあり、量産に応えられるだけの合理化も既に行き届いているように見える以上、経済・効率の建前でこのありさまを「批判」してみせるのは筋が良いと言えない。
20220208
いかにも子供らしい振る舞いにも、子供らしからぬそれにも「かわいげ」が見出され消費されることに生理的な気持ち悪さを抱いた子供は大人一般の視界から外れ遠ざかろうとする──それに伴う危険を未然に防ぎ、彼ら彼女らが安心してその場にいられるよう、ふだんから大人は自分が責任を負わない子供にやたらまなざしを向けるべきでない。
20220207
理屈っぽい大人に対してピュアな「好き」をぶつけて打ち勝つ子どもの構図が胡散臭く感じられるのは、これが「良いもんは良い」「美味いもんはうまい」的なおっさんの強弁に重なるからだ。それにしても、現実の力関係をフィクションなりの理屈で解体してみせるつもりなどさらさらなく、フィクションの作り手として得た力で現実の力関係をお気に入りのキャラクターに再現させる様は、おっさんと呼ぶにはいささか幼稚に過ぎる。特定の価値観の強要に対して「無力な」理屈で抗うのが若さではないか──とすれば、かの構図には端的に若さが足りない・欠けていると言うべきだろう。
20220205
都合の悪い現実を隠すための統計改ざんとは別に、悲観的な数字が上がる仕組みをこしらえたうえで、「本当は」それほど悪くない「現実」を作出するそれが、多分ある──統計とそれによる現実の認識を、楽観的な「現実」主義の名のもとに貶める知のありようは、焦土作戦さながらの様相でないか。
20220204
少子高齢化による労働人口の減少、とりわけ優秀な担い手不足ゆえにたどる衰退とは別に、今あるだけの人口を賄えない無能──資源があっても分配できず、資源の不足に対処する術もない──ゆえのそれが多分あって、前者による衰退はいきおい、後者を糊塗する方便に見えてしまう。彼ら彼女らが家族・世帯単位を重視する理由のうち、しょうもない方の一つは、個人単位で数えると多すぎることではないか、とさえ思える。「一億」なるハッタリの効いた数字を手放せないために、死なない程度で生かされる人口分は、ハッタリをかますことに意義が見出されなくなった時点で政策合理的に見捨てられる──もっとも、一億を「多すぎる」ゆえに賄いきれない者らにはその半分でも多すぎ、もはや「政治」が不要になるまで少なくなってようやく、彼ら彼女らの能力に釣り合うだろう。政治というか国政は多すぎるものを賄う高度な技術のひとつだと考える。
20220203
一方的に殴る者と殴られる者を目の当たりにして、このありさまを嘲笑する者たちが「中立的」かと言えば怪しいところであるにせよ、前者の側に与する者と慌てて捉えなくとも、「中立的」なる当事者の立場として、その振る舞いが問い質されてよい──「中立」はこれを名乗る者が無色透明に扱われるための美名でなく、本人にそのつもりがなくとも当事者としての立場表明であり、彼ら彼女らもまた、然るべく色付けされた当事者として事態を構成し、より悪質な当事者としてしばしばそうする。
20220202
後は野となれ山となれ方式で生き逃げを嘯く者たちは案外、逃げ切りとしての死に対して過度に憶病で、終末系フィクションで描かれがちな特権階層同様に、どれだけおぞましい醜態を晒そうとも、自分だけは最後の最後まで生の側にとどまり続け、絶対に生から逃げないし、本人たちも多分そのつもりでいる──死に抗う若く力強い生を最後までまっとうできるかのようである。もっとも、数あるフィクションで世界に訪れる機能不全はたいてい先に彼ら彼女ら自身のもとへ訪れる──日を追って言いたいこと、やりたいことを形にできなくなるまま、なお直ちに死に至ることのない、ごくありふれた生を我が身で生きるとき、益荒男的な居直りの利くそれとは程遠い自身の「醜態」に、彼の味わった絶望は如何程であったろうか。文学的な想像力は、価値ある生を一様に描くことなく、あらゆる生のありように意義を見出しこれを豊かに描き出すことで、人の絶望を多少なり軽くできるものであってほしい。
20220201
人と違うこと、異なることのみをアイデンティティの拠り所とする者は、他者に共感し共感される基盤となるものを持ちえないかそれを軽視するため──年老いてなおそうある者はいっそう──孤独に映る。それでいて際立つ個性が輝かないのは、結局誰もが互いに異なる、そんな当たり前の事実の一例を、自らのエキセントリックな言動と振る舞いを通じて実践するからだろう──彼ら彼女らひとりひとりはもはや個性的でないにせよ、似たような形の砂粒が無数に入った箱に分類され、自慢の特殊性は尽く普遍性へと回収される。