よいお歳を

雑談
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「よい歳」を迎える時が刻一刻迫る今日このごろ、日頃は意識せずとも、先にそれを迎える職場の同僚が目にとまれば、そうもいかない。健康であること、怪我をしないこと──こころがけとしては、それで十分と考える。今更になって自己啓発書にすがるほど薄い人生を送ったつもりはない──と言えるだけの自負はある。それにしても、その種の本にありそうな人生訓の類、その中でも当たり前すぎるという意見で良質なものは、歳を重ねるにつれ疎かにされがちだ──そんな歳の重ね方を長年見ている。加齢による自制心の衰え、地位をかさにきた傲慢など、長らく自分達を外から苦しめたそれらはすべて、自分達を内から蝕みはじめる。

  • たとえば「愚痴を言わない」というありふれた戒めに従い、自身の批判的言動に対して今まで以上に慎重でありたいと願う時、それが面従腹背を言い訳にした事勿れ主義に陥るのは、加齢に伴う罠として見やすい。この罠に陥る理由は一見すると自己保身にありそうだが、むしろそれは、批判的言動を紡ぎだす労苦から逃れようとする怠惰によるところが大きい。面従腹背の魅力であり害悪でもある側面は、価値ある批判・反骨精神の存在を自身の内面に無条件に──内省・考察を介さず──認めてしまえることだ。いい歳の大人として、立場に配慮して言わないだけで、「本当は」言いたいこと・考えていることが自分にはある、という思い込みは、本当にあったのかもしれない価値ある批判の種を腐らせる。当初の戒めはどこへやら、とうてい批判に至らない「愚痴」は、文字通りのガス抜きとして頻度を増し、いずれ普段の軽口にまで腐臭がこびりつくようになった時、それを諌めてくれる者がいないばかりか、辛辣なご意見番として、いいように担がれてしまえば、その言動は一気に品格を失う──そんな年長者の姿から私たちが学ぶところは決して少なくない。
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