死者に向け手を合わせること、黙祷を捧げることは、彼ら彼女らに対して生者ましてや他人である自分たちが直接何もできないこと、無力であること、死に対して謙虚であることの宣誓で、その後の振る舞いや言動すべてに、この真正性が試される──と私は考える。もっとも、例えば宣誓を破るような振る舞いが「軽率」と窘められこそすれ、宣誓が嘘であったこと、そもそも宣誓がなかったことを責められることがないのは、死者へのあるべき態度を当然に備えた人一般への信頼が共有されているからだろう。この信頼をあからさまに裏切ることが「死者への冒涜」として厳しく批判される時、生者としての人のありようこそが問われている──ここで冒涜的であることを強調するあまり死者を対象化し過ぎることは、批判の方向をゆがめ、その力を削いでしまう。先の宣誓は、死者に対する自身の敬意をこれ見よがし的に表明するために、既に存在しない死者を対象化し過ぎることへの戒めでもある。
- 死者云々以前に、今生きている人としてどうよ、が問われる。今ある仕方で死者を云々する社会で現に生きる人として考え喋ることは、今ある仕方で死者を云々することではないはずだ。