遅い物書きの生存ルートは

雑談

速く書けることは良く書けることに直結しないものの、書き終えて初めて、いかに修正し、あるいは破棄すべきかを的確に判断できるなら、速く書きあげて速く書きなおせることは物書きが備えるべき能力の一つに違いない。そして、かの的確な判断ができる能力を、当の速い物書きが持ち合わせていなければ、できる者が代行ればよい。それはしばしば、速く書けない、書けなくなった、遅い物書きの務めである──とすれば、綺麗に話が収まる。

今日、速く書くことは他の誰にも代行できない。そして将来仮に「物書きAI」が生まれたとしても、同時かそれ以前に生まれる「推敲AI」によって、速く書けるだけの物書きの優位性は保たれる。「物書きAI」の出力に追い付けない遅い物書きの人力推敲を尻目に、早い物書きは「推敲AI」を活用して公開・集金の回転率を高めるだろう。それでも、遅い物書きは「物書きAI」のテキストに人間性みたいなものを保証する存在として自身の存在意義を、まだ主張できるかもしれない。

「物書きAI」が吐き出す「ナマの」テキストを、読者個人の好みに応じたコンテンツに仕上げる「清書AI」が登場すれば、ようやく速いだけの物書きが不要になるかもしれない。そこでは、テキストの推敲や修正、書き直しの指示も含めて読者の消費対象となり、遅い物書きによる人力推敲もいらなくなる。

やがて読者専属のAIが出力するテキストが他の読者と共有され、販売されるプラットフォームが出来上がると、人間の物書きは速い読者との競争に晒される。先の時代に速い物書きが「推敲AI」と「物書きAI」の協業を実現できれば、彼ら彼女らは最速の出版者となり、最速の読者に対峙するかもしれない。

ここに至る過程で、遅い物書きが自身の拠り所とした書き物に対する価値観──たとえば人間的な読みにたえるかどうか、そのハードルの高さ──はその普遍性を失い、読者が個人的に消費すべき趣味のひとつとなる。遅い物書きは人間的であろうとするほど遅い読者となり、遅い消費者として、消費サイクルのお荷物となる。

  • 速く書ける人はそもそも速く判断して速く書き直せるから速いのである、といえばそこまでである。
Photo by Matthew LeJune on Unsplash
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