媒体としての新聞にとって、各社の色がある「ジャーナリズム」はブランドみたいなもので、媒体の価値が利用者数と利用者の均質性で決まるなら、価値を担保するのがそれであり、同時にこれを損ねるようなブランドであってはならず、価値を別の仕方で担保できるなら、ジャーナリズムはいつでも停止され、切り捨てられる。
昨今批判される新聞の「忖度」報道合戦は、新聞各紙が「政治」という展示会場で、媒体としての優位性をプレゼンし合う様相を呈している。各紙とも、政権に媚びるのでなく──もちろん「忖度」などない──あくまで彼らを客として捉え、これに堂々と対峙しているつもりかもしれない。ほかならぬ「政治」の場でジャーナリズムでない「それ」をやり抜いてみせるあたりに、各紙とも媒体企業としての矜恃がうかがえる。
ここで新聞が持つ媒体としての優位性、その利用価値を訴求できるのは「リベラル」紙ではないか──数百万にのぼる「リベラル」な読者たちに、彼ら彼女らの政治的責任、そして有権者としての主体性を免除する定型句を届け、「理論武装」させることで、政治的な急進性を削ぐことに成功し続けている。読者層が一定しない、あるいは「リベラル」ではない方面に一定するネット媒体とは異なる優位性を担保できる程度にジャーナリズムを稼働させる「バランス感覚」が、媒体企業たる「リベラル」各紙に今後求められ続けるのだろうか──などと、言いたくもなる。
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