20220628
海外もの異世界もの問わず物語の登場人物がわれわれの分かる言葉で喋ってくれるのはそれが物語だからである──われわれに分かるように表現する仕方を誰かが採用したからであり、作者と訳者の名前を含めて音読させるこくごの授業を思い出せば、それが義務教育で身につけるリテラシーの一つと分かるだろう。この種の「素朴な疑問」を提示して見せる者には、単純に現実と物語を区別できない症状がみとめられ、治療寄りの教育を勧められるだろう──もっとも昨今これを目にすることがなくなったのは、リテラシー教育がゆきとどいたおかげだろうか、観察範囲の狭さゆえか。
20220626
正義感と情け深さを兼ね備えた神であれば「再稼働」まで待ってくれるだろうが、人に「再稼働」を待たせることはないだろう──そして実際に人が待てなかったら当然、正義感と情け深さが足りないのは神でなく人である。
20220625
「主語」の大きな話をとがめる者たちはおそらく、具体的な特定の「主語」を据えた話であっても、自分に都合が悪ければ無関係を決め込むか、些事としてあしらうだろう──彼ら彼女らが当事者の立場から逃れようとするほど、われわれの用いる「主語」は大きくならざるをえない。
20220622
「政治」一般に対して見ているだけ、というか見ることさえ求められない「観客」のままでいられる絶対多数派の与党支持に比べれば、特定の側に立ち、それを意識し、時に行動さえ求められる野党支持は、ある種の平均的有権者にとって苦行以外の何物でもなく、それを求める者には拷問者に対するものと同じ憎悪を向けるだろう。今日サヨクが憎まれる原因は多分、主張する内容でなく主張すること自体にある──権力を持たない者たちが行うそれは当然、人に分からせる仕方をとる以上、神様であるお客様に畏れ多くも主体的に考えることを「強要」するからだ──ある種の教育が完了した者は、主張する野党に対して、その「接客態度」が「社会人」としてなっていない、などと憤ることさえあろう。
20220621
かの特別職連中が今後銃口を向ける相手は国民であろうが、そのとき撃たれる者はどうせ「国民」と呼ばれないのでセーフ、などと内輪で嗤い合うだろう。
20220619
日本を清朝末期になぞらえる一文にふれ「アヘン戦争の内製化」なるワードを連想するも、それだけにとどまる。
20220618
一見すると彼岸の存在に映るものがわれわれから地続きであることを暴き出す作業が、社会科学の面白みの一つだとすれば、例えば善悪を超越したかのように振る舞う権力などは格好の餌食として、学者ばかりか学生とインテリ崩れの餌食となって食い散らかされてしかるべきである。
20220617
「トロッコ問題」は今の社会にいかなる軌道が敷かれその上に誰が縛られているのかを明確化するためのたとえ話であり、これを踏まえた軌道の組み換え=社会設計の修正を考えるのが人文学と社会科学の仕事である。殺されるべき者が誰なのかを「真剣に」論じあってみせる作業はせいぜいエンタメの域を出ず、一連の学はその有様こそむしろ分析すべき現象ないし症例の一部とみなすだろう。もっとも、こうして得られた知見が「ほんとうの」トロッコ問題に直面した「現場」で直接生かされることは多分なく、いかにも実践を想定したかに見えるかのエンタメコンテンツ同様に役立たなない。おそらく「問題」の「答え」はその時その場次第としか言えず、それにしても下される個々の決断、というか決断する者たちに少しでも確信を与え彼ら彼女らを支えるのは、どちらかといえば学の積み重ねの方だろう。
20220614
構成の奇抜な問題提起として耳目を集める「思考実験」は少なからず、従来であれば人一般の平均的な自制心がその言語化と表明を当たり前に抑え込んだ凡庸な言説が、昨今は学問エンタメの体裁で面白おかしく扱われる現象の一つであり、今日における自制心のマクロな変動とそのありようを描き出す思考と分析の対象となる。
20220610
リアルな「最悪」の事態は少なからず、人の想像力を凌駕してみせる程の「サービス精神」を持ち合わせない一方で、人が想像できる程度の代物を必然性の筋立てで分かりやすく実演し、あらかじめ分かっていたこととしての知に対する人の怠慢と無力を白昼堂々とさらけ出してれる程度には「しんせつ」である。
20220607
役に立たず儲からず難解なだけの「知」は今日、疎まれるばかりか「個人の感想」レベルにまで貶められる一方で、手に入れば利権にありつける一発逆転ボタンのような「知」のイメージも存在する──後者の象徴として採用される書物・本のビジュアルはもっぱら所有の対象としてのそれだろう。