地元の映画館でシンエヴァを見る。土曜の15時過ぎ、高校生~20代の男の子、女の子、合わせて10人程度と、予想外に若い客層、そして多い。冷房がきつく、いつでも出られるよう出入り口付近に陣取るも最後まで、事なきを得る。女の子はみな泣いており、駐輪場では男の子が──「破」の方が良かった、と二回呟く。なんか、いいね。
その展開に虚を突かれた風でもないのに、見終わった後で「まあこんなものだろう」以外の言葉が出てこないあたりは、おおかたトシのせいにちがいない。それにしても、エヴァなら当然のように湧き上がるはずの、とりあえず言いたい、書き留めておきたい思いのたけのなさ、そして感慨らしきもののなさは、単なる感受性の衰えで片づけられそうにない。20世紀末の当時に抱いた、コンテンツを貪り食わんばかりの熱狂──作品に対する距離感をも狂わせるそれ──が生み出す一方的な「当事者意識」みたいなものを私は、それがとうに失われたはずの今でも、「エヴァンゲリオン」の名前だけをよりどころにして、当然あるかのように、20年以上錯覚し続けたのだろう。勘違い気味な「当事者意識」に駆られた熱量で作品に接すれば、相応の言葉と感情が自ずと湧き上がろうものの、「当事者」であるという思い込みだけでそれは望めない。
平たく言えば、エヴァなら分かるだろう的な思い上がりが、良くなかった──数年前に全部で6.66のBDを見終えた時点で考えを改めるべきであった。
もっともこれを、20年前の友人が出る芝居を身内気分で見に行った時の居心地の悪さ、痛々しさに例えるなら少し言い過ぎで、この日見たシンエヴァは、昔のおともだちにも配慮の行き届いたやさしさ、というか、同情で満たされていたように思える。
終わったもの、もうないものを、まだあるかのように錯覚し、そうあるかのように振る舞うさまは確かに呪縛的である──とすればこの日、終わっており、もうないことに気づくことで、なんらかの呪縛が解けた感は、なくもない。その意味では、おめでたい終劇なのか。